2008-11-28 00:00
ふと思い立って列挙しようと考えた。
・アマデウス:Makingは何度も見たけどね
・ニューシネマパラダイス:You are young. The world is yoursを聞いたころは20代だったなあ。
・The silence of the lambs羊たちの沈黙:邦題はいまいちのような
・ミスト:後味の悪さ超一級品。
・ユナイテッド93:見終わるとぐったり
・さびしんぼう
頭の中ではもっとあるような気がしていたが、こんなものか。
2度見ても、一度目のような衝撃を受けない映画もある。「戦場のメリークリスマス」を最初に見たときは、最後のTakeshiのアップで打ちのめされたものだが。「遠い空の向こうに」を見た時にはさめざめと涙を流したものだが、今見たらどうかな。同じくさめざめと涙を流すが意味合いは少し違うかもしれない。
2008-11-27 00:00
再生回数は(自分を除けば)4日で50件余り。もちろん数百万回再生された動画に比べればわずかな数だ。
しかし
仮にニコ動のような仕組みがなかったとしたら、誰が私の歌を聴いてくれるというのだろう。人前でライブをやってもいいところ10-20人。道でギターなんぞかきながらしながら歌うと(私がギターでFを押さえられないという些細な点は無視するとしてだ)たぶん誰も足を止めてはくれない。
そう考えるとこの50という数字は驚くべきものではないか、と思えてくる。
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このブログの閲覧数は毎日だいたい30くらい。これまたアクセス数の上を見ればきりがないが自分が書いたものを毎日30人の人に読んでもらえる、というのも驚くべきことだ。
人生の前半分をインターネットなしで暮らし、後ろ半分をインターネットありで暮らすことができたからこうした感慨を持つことができる、と自己満足に浸ろう。先日NHKで「デジタルネイティブ」という番組をやっていたらしいが、デジタルネイティブの人たちにはこの30の重みはわかるまい。
2008-11-26 00:00
11/23、川崎にベルリンフィルを聞きに行った。
詳細な感想は後で本家に書くつもりだが、一言でいえば
圧倒された。
演奏が始まる前、アナウンスに従いiPhoneの電源を切った。後で気がついたことだがこれには意図せざる意味があった。
いつでもどこでもネットにアクセスできるようになり、手持無沙汰となれば、すぐにiPhonをいじりだす。
しかしネットにアクセスすることで得られる情報や体験というのはある一定以上の範囲を超えることはまずない。それゆえ時間が均質に、だらだらとすぎるようになっているようにも思うのだ。そうした中にあって、ベルリンフィルの演奏を聴いている時間はまさに「異質な体験」だった。
音色の高いものから低いものまで何本もの弦楽器がメロディを一体となって奏でる。それは今まで聞いたことのあるどのオーケストラの音色とも異なっている。何か得体のしれない音がうねっているように思える。
低音を奏でる弦楽器をピチカートで演奏する。確かに複数の演奏者が奏でているはずなのだが、どう聞いても音は一つだ。なぜこんなことができる。
後でパンフレットを読めば、ベルリンフィルのメンバーは常に苦悩と恐怖に直面しているとのこと。確かにそうだろう。これだけレベルの高いオーケストラにおいては、失敗への許容度は限りなく狭いのではなかろうか。
自分が演奏を志していたとしたら、この演奏を聴きどのように感じたのだろうか。素晴らしい目標ができたと思うのだろうか。それとも逆なのだろうか。
とかいつになくいろいろなことを考えた。チケットはとても高かったのだが、時々「これに金を使わないで何につかうのだ」と思える体験ができることは幸運だと思う。
2008-11-25 00:00
とかなんとかいっているうちに久しぶりに映画をみた(ポケモン3Dは数に入れないとして)
以下本家から改変しつつ転載。
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豪華(?)な出演者を集め、ベトナム戦争ものの映画を作る事になった。しかし役者の我が侭に振り回され撮影はさっぱり進まない。これは、もう「ブレアウチッチ」方式しかない(映画の中でそういう表現は使われていないが)というわけで役者は東南アジアのジャングルに放り出される。そこに麻薬組織が迫る。
ベン・スティーラー、ジャック・ブラックはコメディ映画の人たちだが、ロバートダウニーJRだけは普通の映画に出る人でもある。主役は一応ベン・スティーラーなのだろうが、演技力に応じて出番の多さが決まっているような気がする。ジャック・ブラックは麻薬中毒できーきーわめいているだけ。それが正解だろう。いきなり朗々と歌い始めるなんてこともない。
ロバートダウニーJRは「黒人のふりをした白人役者」という役柄。自分がNativeではなせる方言をNon-nativeの人が真似していると異常にイライラするが、一行の中にいる本物の黒人にとっては、この「偽黒人」は気に障る存在だろう。そのイライラさは十分に画面から伝わってくるがそれ以上どうということもない。
いかにもアメリカ的なおばか映画なのだろうが、そののりに今ひとつついていけないのも確かではある。トムクルーズに変な踊りをさせてみたり、ハリウッド内輪受けの要素も沢山あるのだろうが(考えてみれば、ダウニーJRではなく、ジャック・ブラックが中毒患者なのもその一つか)私にはよくわからない。とはいえ退屈はしなかったのでこの値段になるわけだ。
あとアメリカのお下品映画特有の「グロ」い要素もてんこもりであるから、そういうのが苦手な人にはお進めしない。何度か米国映画で目にするが、普段のお上品さと、こうした下品さが一つの国の中で両立するってのは、、まあ人間はそうしたものか。
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米国映画の「グロい下品さ」だが、それがある映画は徹底的に存在し、ない映画はきれいにそんなことを消しさる。この両極端さ、というのは米国特有のものなのだろうか。我が国においてはその上下の差があまりないようにも思う。
2008-11-21 00:00
理由はいろいろあるのだが、見たい映画がない、というのがその最たるものだ。
たとえばハッピーフライトという映画をやたらと宣伝しているし、上映もしている。しかしだいたい予告編を見ればおなかいっぱいである。
「日本の芸能の基本は”素人”、”幼稚”、”内輪受け”」
という信念を持っているのだが、ハッピーフライトの予告編を見ると「ああ、また、、」という気がしてくる。それに加えて「ANA全面協力」という姿勢が見えすぎていやだ。
ここらへんの絶望感を他人の言葉を借りて語ってみよう。
しかし、こういう政治色と言うか、コマーシャリズムの強い映画も、日本映画の特色と言えば特色なんですよね。そして、ぼくが日本映画にほとんど興味がないのも、こうしたコマーシャリズムが好きではないからかも知れません。
ぼくは映画が本当に好きなのですが、それは「フォレスト・ガンプ」や「フルメタル・ジャケット」のような、ビジネスのど真ん中でエンターテインメントとして作られながらも、そこに隠しきれない芸術性が浮かび上がって来る、そういうのが好きなのです。だから、いつか日本でも、そうした映画が普通に、当たり前のように作られる時代が来れば良いなとは思うのですが、こういう映画を見ていると、それはまだまだ先のことのようにも感じてしまうのでした。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081110/1226280988
もちろんそうではない日本映画もあるとは思うのだが、まだ先は長い、というかあまり進歩もしていないように思う。
昨今「邦画が復活している」と書いた記事を目にすることも多い。あるいは興行収入の観点からそうしたことが言えるのかもしれないが、内容は、、何か変わったんでしょうか。私が見た邦画は結局「崖の上のポニョ」だけなのだが。
ーーー
ここでいきなり話が変わる。
株とかにはほとんど興味がないのだが、最近の見出しを見る限り、ダウと日経平均の間にはきわめて高い相関があるように思う。
ということはだよ。
ダウの結果がでれば、その日の日経がどうなるかわかるわけだ、、、とやっている人はきっといるんだろうなあ。儲かっているかどうか知らないが。
2008-11-20 00:00
iPhoneを持つようになってからというもの、暇があればどこでもYahooの見出しがチェックできる。2chだってよめる。わーい便利だ。
しかし最近少し頻度を抑えようと思った。
なぜか自分でもわからなかったのだが、昨日この記事を読んで納得がいった。
ネットに割り当てる時間配分を間違えなければ、ネットは人生を豊かにし、自分の未来を切り開く力をくれます。
しかし、ネットに多くの時間を使いすぎると、人生を根幹から豊かで納得のいくものにしてくれる良書を読む時間を失い、自らの人生を破壊し、未熟なまま老いてしまう危険があります。
「優れた書籍」と「はてなの人気エントリに上がるような記事」との落差は、ギアナ高地の断崖絶壁どころではありません。
その通りだ。確かにiPhoneで気軽に手にはいる記事は時間つぶしにちょうど良い。新しいことを学べることもある。
しかしそれだけでは足りない。
というわけで、本を読む時間を増やそうと思う。家にいるときも子供の相手片手間に読む本は、
なんぞが多かったわけだが、何度も同じ本を読んでいてもしょうがない。というわけで、(これも読みなおしなのだが)
など読んでいる。そしてその内容について考える。
もちろんiPhoneに青空文庫リーダーをいれて読んでもいいのだが、、、100円けちるなよ。自分。
2008-11-19 00:00
先日読んだ記事
朝倉 ええ。それはネットのレビュー全体がそうですけれども。書いている人はどこまで意識しているんだろうと思いますね。自分の「読み」や表現のレベルをだれでも読める場所にさらしているわけでしょう。
豊崎 よくあんな怖いことを原稿料ももらわずにできるなと、私も思います。雑誌のライターをやっていて救われているのは、1カ月もあったらこの世から消えちゃうからですよ。ブログでレビューを書いている人たちは、自分の文章がずっと残って検索されていくことの怖さを知っているのかな。
ネット上でたくさんの注目を集める文章がある。それらのうちいくつかと自分の文章を比べる時「ああ、やはりだてにアクセス数の差異があるわけではないことを知る。
本家にも少し書いたが、頭の中に考えがあるうちは、なんだかとてもすごいことを考えているような気がする。
文字にする。実は何もないじゃないか、ということに気が付く。
同じ題材を使って書いた別の人の文章を読む。どっと落ち込む。
しかし今の私のもっとーは「とにかくジタバタする」である。このブログの副題もそこから来ているのだ。
というわけで、落ち込も前進のネタであろう、と考え書き続けることにする。少なくとも「諦め」への前進ではあるはずだ。
2008-11-18 00:00
昨日この記事がはてなブックマークに取り上げられていた。
伝説的なプログラマーのビル・ジョイのような人や、ビル・ゲイツや、ビートルズのようなバンドの成功も、「10000時間の努力」と、いくつかのタイミングが支配しているのだそうです。
読んで思い出したのは五輪書である。
千の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす
地道な積み重ね。それだけが向上の鍵であると。万日といえば30年弱であるか。
「日」ではなく「時間」とすれば10,000時間。もちろん私が昼寝に費やした時間はそれをはるかに超えているだろうが、私は昼寝の達人とは言えない。
目的意識を持ち、「今はできないこと」を10,000時間練習し続ける。
ただ10,000時間過ごすのではない。10,000時間練習する。
確かに私はそのような例をいくつも目にしながら、そこから学ぶこともなかった。まねることもしなかった。
昨日絵が上達した人について同じような話を読んだ気がしたが、、見つけられ、、、ました。
友人が、物凄く絵が上手いんだけどさ。
でも最初は下手だったんだよね。
たいしてうまくない自分より下手だった。
でも急激に成長してる。今はもうホントに上手い。絵で仕事もしてる。2chのスレでもよくある、「上手い人見て凹んで描けなくなった」とかいうやつ。
自分も上手い作家さんとか見たりするとああいう気持ちになったり、年下なのに上手いのとか見るとホントへ込むんだけど、どうやら友人はそういうのが無いっぽい。前その辺語ってて判明した。「できない」って思わないみたい。
なんか。すごい人見ると、即座に「そうなるにはどうすればいいか」「自分に何を+すればそうなれるか」「そして+する方法は何か」を考えてる。
http://anond.hatelabo.jp/20081117033650
こう考えると、所詮人間を進ませるものは理屈を超えたパッションなのだと思い知らされる。
私のような人間は、できない、やらないことに対する何通りもの理由を探し出し、理論を構築する。
しかし
そんな理論では何一つ動かすことはできない。パッションとは時に理不尽で非合理で非道であるが物事を、自分を動かすのはパッションなのだ。
万の稽古をどうやってつもう。本家サイトは10年以上続けているが、鍛くらいにはなっているのだろうか。
2008-11-17 00:00
5歳の息子を相手に双六をやった。マクドナルドにいったらハッピーセットについてきたのである。
サイコロがないので、iPhoneのアプリケーションを使った。絶対にずるができないので教育上もよろしい。
双六をやったのは何十年振りだろう。「ドラフト会議。全員この場所に集合」とか「一番先頭の人と位置を入れ替わる」とか今まで経験したことのないようなイベントがあり、結構たのしかった。
昔からあるのは「一回休み」とか「ふりだしに戻る」
後者にはやはりどこか寂寥感がともなう。スゴロクならふりだしに戻るだけだが、実際には年をとっていく。ただ「ふりだしに戻る」ことはあり得ない。いや、ふりだしに戻るというのはそう悪いことでもないのかな。マイナスからは脱却できるわけだから。
ちなみに父親は息子に10連敗した。スゴロクは純粋に確率のゲームと思うのだが、こういうこともある。
2008-11-14 00:00
おそらく多くの人(とはいっても数十人か)が同じことをしたと思うのだが、「親友が虎になってた。別れたい…」を読み、
「そういえば」
と原文、山月記を読む。
そして何人かは私と同じくこのフレーズに目をとめたと思うのだ。
臆病な自尊心と、尊大な羞恥心
(中略)
人生は何事をも為(な)さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄(ろう)しながら、事実は、才能の不足を暴露(ばくろ)するかも知れないとの卑怯(ひきょう)な危惧(きぐ)と、刻苦を厭(いと)う怠惰とが己の凡(すべ)てだったのだ。
中島敦 山月記
思えば私もこの両者の間でうろうろしてばかりいるようなものだ。そして「解」をみつけた、と思っては大変後悔する。
しかし
年をとるということは、残りの年数の少なさを自ら悟ることでもある。そして鈍感になり無神経になるということでもある。
姜尚中氏がTVで語っていたのだが、人間そうした悩みや矛盾が極限にたっすると我儘になる、と。我儘になると羞恥心は減り、自尊心が表にでてくる。
かくして虎は虎の姿のまま詩歌を書き散らし、弓矢を向けられても止めないのであった。どうせ先の短い身だ。日は暮れて道は遠い。であれば、好きなことをしよう、と。
はて、何をかいているのだっけ。
2008-11-13 00:00
本家にもいろいろ書いているが、これもいれていいのかもしれない。
次は「you know」。これは純粋なテクニックなのだが、この言い回しを上手に使いこなす日本人はほとんどいないそうである。
英語に圧倒的に一人勝ちする7つの言い回し - ハックルベリーに会いに行く
この You konw, とI mean はそれこそ会話の中にやたらとでてくる。とはいっても慣用句の常として意味はほとんどない。つまり相手が I mean,で始めたとしても相手の言うことに意味があると思ってはいけない。
同じようにYou konwといわれても知らないことを言われることもある。私の友達の香港人は相手がYou know,と言った時にI don't konwと答えていた。いや、本当にそう答えたい場面も多いのだ。慣用句だからいちいち気にしてはいけない、と悟ったのは米国に行ってかなりたってからのことである。
ちなみに引用した文章では、I mean ははいっておらず"you mean"がはいっている。あとHoly ●●!はいろいろあるようで、同じグループにいた米国人はHoly Smoke!といったあとに自分で「ちょっと古かったかな?」と照れていた。なでもTVのバットマンシリーズでロビンが
Holy Smoke ! Batman !
とかよく言っていたのだそうな。
2008-11-12 00:00
こんな記事を見つけた。
調査対象は、首都圏在住の35―64歳の女性1236人。注目は「自分で自分を何歳くらいに感じているか」という設問。自分自身を、実年齢と比較してどれほど若く感じているか“マインド年齢”をたずねたところ、全体の8割が「実年齢より若い」と回答。平均はマイナス5歳。
ある編集者の気になるノート : 女性の年齢、「5歳」は若く言っておけ!
しかし私はこの「平均」をとるという点について異議を唱えたい。
先ほどの記事で重要なのは以下のデータである。
■自分で自分を何歳くらいに感じているか。実年齢との差■
▲はマイナス
45―49歳…▲ 6 . 0歳
50―54歳…▲ 5 . 6歳
55―59歳…▲ 5 . 5歳
60―64歳…▲ 5 . 4歳
40―44歳…▲ 4 . 0歳
35―39歳…▲ 3 . 2歳
※(ワコールホールディングス調べ)
ここから計算すれば、ほぼみな自分が「実年齢より一割若い」と思っていることが見て取れる。(45-49はどうかと思うが)
従ってここでは「平均5歳」ではなく「実年齢より一割下」とするべきであろう。
ーーー
いや、これは私の独創ではない。元ネタはOL進化論である。
(たぶんこの巻ではないと思うが)
この本で紹介されていたのは、以下の理論である。
「女性が年齢をサバ読む際、一割は軽いが2割はつらい」
つまり40歳の人が36歳とは言えるが、32歳はつらい。20歳の人が18とは言えるが16はつらい。という理論である。
上記の「年齢別自分がいくつだと思っているか」はまさにその理論を裏付けしている。
ーーー
とはいっても、これは相手の実年齢に関してある程度予測がついている場合に使える理論であり、全く情報のない相手に対して「何歳か」と推定するのは常に危険が伴う行為だ。
もうここは開き直り、相手が起こりださない範囲で下限の推定を言うしかないのだが。
2008-11-11 00:00
というわけで、いまや元通りの段ボールの中におさまったQ:であるが設置したり使ったりしている間にいろいろなことを考えた。
同じような感想を述べられている方もいるようだが、とにかくオーディオだ映像だというのは様々な接続方法があり、様々なモードがあり、話がややこしい。名前は知らないが、赤白黄色のケーブルだけかと思えば、D端子なる不思議なものがあり、HDMIとか称する平べったいものがあり、光ケーブルがある。Dolbyがあり、なんとかがあり、かんとかがある。
さて
私は素人なので、こんな風にならないかと思うのだ。
各機器は無線でつなぐ。無線が無理というのなら、単一のケーブル一本だけで接続する。デイジーチェーン形式で柔軟に設置できるようにする。とにかくお互いつながってさえいればいい。そしてメディアのネットを形成する。
音、映像、それぞれのソース。それを増幅するもの。それぞれを出力するものがネットに存在していれば、それをiPhoneのような画面上で自由に接続したり調整したり、設定を変更できるようにする。設定を何も行わなくても、映像、音声のソース、それにそれぞれの出力機器がひと組でもネット上に存在していれば、そこから音、映像を流す。
なぜこういうものができないかといえば、素人なりにいろいろ考え付くがもっとも大きいのは
「そんなことしても、コストの割にもうからない」
ではなかろうか。
しかしなあ
それこそモーターショーに展示される「コンセプトモデル」でもいいのだが、こうした夢のある「あるべき姿」を形にすることは、意味のあることだと思うのだ。
前にも書いたがCEATECで村田製作所があれだけの観客を集めていたのは、要素技術が素晴らしいからではなく、それらが「面白い姿」に具現化されていたからに他ならない。そして私の意見では世間では確かにそうした「わくわくする。なったらいいなという姿」に飢えているのだ。業界には大人の事情やら、常識がたくさんあるのは知っているよ。でもそんなのは消費者にとってはどうでもいいことだ。
後ろに埃がたまりません。お掃除らくらく、と言える製品を作り上げたら奥様方から絶対的な支持を得ると思うのだがいかがなものだろうか。それより大画面、高画質化のほうが重要ですかね。たとえばMac G4 Cubeのように底面を少し浮かせてそこからケーブルを出すようにするだけでも埃の問題は相当解消されるのではなかろうか。配線のしづらさは背面だろうが底面だろうが変わりないんだからさ。
機械が苦手な人でも、とにかくケーブルと電源さえつなげば大丈夫。どこで聞くかとか何を見るかとか自由自在、ってあんまり夢のある話じゃないかな?
ーーー
また段ボール箱を開け、中のケーブルを取り出している間にもあれこれ考える。こうやってカッターでテープを切り、ケーブルをくるんでいるビニールをはがし、、というのはいつもいつもやっていること。
しかしこの包装もなんとかならぬものだろうか。とにかくカッターを用いずにすべての開梱を行いたいのだ。子供が近くでうろちょろするからカッター危険だしね。たとえばAppleの製品はそこらへんを年々改善しているように思える。しかしケーブルをまとめているネジリッコ(なんとよぶか知らないが)だけはなんともならない。
こうした地道かつ低コストで実現しなければならないものに革新が訪れることは、、私が生きている間には無理かなあ。。
ーーー
などとブログを書いている間だけは思考があちこちを飛び回る。さて仕事に戻るか。。
2008-11-10 00:00
前回までのあらすじ:能天気に「これすごく音がいいんだよ」という夫に対し、妻は「こんなものどこに置くの。部屋を片付けなさい」と激怒する。怒られた夫は泣きながら思い出の品を捨て部屋をきれいにする。そしてこっそり部屋にQ:を設置しその音の力に感嘆する。しかし当初の目的だった「リビングに設置して家族でよい音を楽しむ」という目的はまだ達成されていない。
---
金曜日家族でご飯を食べる。子供がなかなか食べないとき奥さまは機嫌が悪い。Q:をリビングに設置することについて許可を得たいが、今は黙っている方がよさそうだ。
あけて翌朝。子供たちは結構快調に朝食を食べる。チャンスは未だ「あのー。スピーカーをTVのところにおいてもいいでしょうか」と聞く。一瞬奥さまの動きが止まる。まずい
「いや、すぐ片付けますから」
という。奥さまは「いいわよ」と許可をする。やれ、これでとにかく少しの間はリビングで聞くことができそうだ。
とはいってもすぐに置くわけにはいかない。午前中は子供たちを連れて外にいく。奥さまは部屋を掃除したいのだ。掃除の前に設置など危険すぎる。
というわけで数時間後子供たちをつれて家に戻る。昼御飯を食べるとさっそくごそごそやりだす。
例によって設置は簡単である。TVの上にトップスピーカーをのせ、TVの前に台形のスピーカ。サブウーハーはちょっと邪魔なところに置くしかないが、いつまでもおいておくわけではないから怒られないだろう。幸い今日は天気が悪い。奥さまは洗濯物を干すときには必ず蹴飛ばされる位置だが、今日は部屋に干すしかない。
DVD/CDプレーヤーと光ケーブルで接続してさあできあがり。まず見るのはリバーダンスのDVDである。
私が買ったのはこれより前のバージョンだが、そんなことは関係ない。映像を流し始めると奥さまがちらっとそちらを見る。それくらい音の迫力が違う。子供たちもじっと見ている。前に私のPCでこれを流したときは全然みようとしなかったが。
やはり低音の響きがすばらしいと音に力がでる。その次にはブラームスの交響曲第一番を聞く。自分の部屋で聞いた時もよかったが、こうして広々としたリビングで聞くとまた違ったよさがある。そのあと何曲かCDを聞いたのだが、奥さまとぽつぽつ会話をかわす。「」内が奥さまの発言である。
「小さいわね。ふたつなくていいの?」→なんだか知らないけど、これでちゃんと聞こえるんだよ。
「これいくら?」→定価88000円。しかしレポート書くと半額になるんだ。(たかいですか?たかいですか?)
「安いんじゃない」→(をを、と心の中で感動するが表にはださない)
「これどこにおくつもり?」→場所さえあればリビングに置きたいんだけど、今場所ないから自分のところに置こうと思うんだ。色は白と黒でどっちがいい?
「白」→(おお、発言が前向きだぞ、と感動するがやっぱり表にはださない)
「ちょっとBOSEのCDプレーヤーと聞き比べてみる」→このあと奥様から発言はなかったが、Q:にしたままで聞き続けたということは気に入っていただけたということなのでしょう。
「音の広がりが違うわね」
ーーー
映画Amadeus のMakingを見る。本篇は最初に見たときあまりに感動してしまったので、なかなかもう一度見る気にならないのだ。会話が多いが、時々流れる音楽の迫力には驚く。
いろいろな曲を聴きながら考える。今まで「音は情報を伝えればよい」と思っていた。TVの音声を消すと何をやっているかわからないよね。だからスピーカーが必要、というわけである。
しかし今回Q:を使ってみてそれは話の半分以下であるということに(今更ながら)気がついた。音は単なる情報伝達手段ではない。いや、広い意味でいえばそうなのだが、Q:は感動やリアリティまでも伝えてくる。それを通して聞く音とというのは今まで自分が体験したことのないものだったのだ。
などとあれこれ考えている間、奥さまは特にQ:の撤去について言及しない。しめしめ。このままで行けば、返すまでリビングでこの音を楽しむことができるだろうか。などと考えていた私はやはり愚かだった。
日曜日の夕方、夕食を食べていると奥さまがこう言う。
「ところであれあのまま置いておくの?ケーブルが増えるから埃がたまるんだけど」
私は即座に答える。
「いえ、すぐ撤去します」
そして即座に解体、箱詰めを始める。理論的にはまた自分の部屋に設置してもいいのだが、また私の部屋を掃除するときに呪いの言葉を吐かれても困る。奥さまは何もなくなったTVまわりをみてご機嫌そうだ。
私は開梱時の写真を見ながら、Q:を箱に詰める。一週間にも満たない間だったけど楽しかったよ。明日からまた980円の外付けスピーカーの音に逆戻りか。今度白を購入したら、自分でこまめに掃除するようにしよう。そうすればきっとすてられない、、かな?
ーーー
などと悲喜がいりまじってはいたが、「よい音を聞く」という体験は私にとって斬新なものだった。オーケストラの演奏を聞くと、それぞれの楽器から音がでる場所が聞き分けられるような気がする。なによりも、自分がひたすら音楽をスピーカーで聞くようになったのは驚きだった。これまでは音楽を聞くといえば、iPodかその類をイヤホンで聞く、と決めつけていたのだが。
というわけで私は乏しい小遣いをはたいて白いQ:を買うことになるのだろう。それがどのような運命をたどるか私にはわからないが、部屋をこれまで以上にきれいにする必要があることだけは間違いない。
2008-11-07 00:00
マラドーナがアルゼンチンの監督になるのだそうな。
昨年6月に日本国籍を取得したアルゼンチン出身の浦和FWエスクデロが、母国の英雄マラドーナ氏の代表監督就任に複雑な表情をみせた。最初は「叔父は親友。父も一緒にプレーした。僕もパーティーでサッカーの話を聞いたことがある。サッカーの経歴は神様と言っていい」と期待。しかし「まじめにやってくれるかな。2部の監督時代は9時練習開始と言って11時に現れる人だったからね。期待はしてるけど…」と不安も口にした。
“マラドーナ監督”にエスクデロも複雑(サッカー) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース
私のようにサッカーに興味のない人間でも彼の「超人的」としかいいようのないプレーのビデオは何度か目にしたことがある。
しかしそれとこれとは話が別だ、というのも事実だ。
スポーツという娯楽に人の目を集めようとすればいろいろな方法があるのだと思う。このアルゼンチンにおけるサッカーのやり方はどこか我が国のプロ野球にも重なるところがある。監督としての実績より「人気」というわけだ。
平成の牟田口再登場はさすがにかなわなかったらしいが、実現まであと一歩のところにあったのも事実である。最近はさすがに沈静化してきたが「長嶋」という名前に対する常軌を逸した持ち上げぶりもそう遠い昔のことではない。
これらとは全く別の方法をとっているのがNFLである。名選手だったというだけの理由で監督として重宝されるとは聞いたことがない。フェアに、オープンにやることがそのスポーツ振興の方法であるとの認識が徹底しているように思える。
そういう意味でいえば「大統領選挙」もそれと同じ認識で行われるものかもしれない。「当選何回組」とか議員先生にしかわからない言葉が何かを決定することはない。党内でどんな地位にあろうが、予備選で、そして大統領選挙で票を集めたほうが勝ち。大変クリアだ。
個人的には国際的なサッカーの仕組みにはどこか馴染めないところがある。ワールドカップでの熱狂はすごいと思うが、そこかしこに「危うさ」が見え隠れする。もちろんこうした「危うさ」が悪いというのではない。しかし長い目でみてどちらが興味を集めるかといえば、「クリアにしたほうがいいんじゃない?」と思うこともある。
2008-11-06 00:00
バラック・フセイン・オバマ・ジュニア 47歳
小室哲哉 49歳
40代後半は何かと難しい。ここまでの20年とここからの20年は難しさがケタ違いだ。
もちろん20年前はそんなことは何も考えていなかった。
ーーー
オバマの演説全訳が、はてなの人気エントリーに3本はいっている。これは素直に驚くべきことではなかろうか。
彼の言動には過度の「我」というものが感じられない。彼は何に仕え、どこにいこうとしているのか。あるいはそのまんまなのだろうか。
党内派閥がどうだとか、もちろんあるのだろう。しかし最終的には個人が献金したお金で選挙運動が行われ、個人の自由な投票によって首長が決められる。
こうしたプロセスはとても興味深い。もちろん今の我が国でこれをやると田中某が首相になってしまい、それはそれでとっても問題なのだが。
ーーー
同じ時、はてなの人気エントリーにはこのような記事も載っている。
祝勝会を開いた市民の有志「オバマ候補を勝手に応援する会」はこの日、来年1月の大統領就任式に“出席”する方針を表明。フラダンスチーム「おばまガールズ」がホワイトハウスの前で踊りを披露する予定という。
痛いニュース(ノ∀`):小浜市民、オバマ氏就任式に米ホワイトハウスの前で「フラダンス」を予定
ちょっと、、と言いたくなるが、「都市の名前を売り込みたい」という意欲の表れであるとするならば、↓のニュースよりはるかに好ましいとは言える。
米人気映画シリーズ「バットマン」で市名を無断で利用されたとして、トルコ南東部にあるバトマン市のカルカン市長は5日、映画製作者を相手取り訴訟を起こす意向を明らかにした。
映画「バットマン」、無断で市名を利用、トルコのバトマン市提訴へ - MSN産経ニュース
2008-11-05 00:00
前回までのあらすじ:ハイビジョンサウンド会議に出席した男は、ハイビジョンTVとQ:の音の差に驚愕する。「これに金を使わずして何い使うんだ!」と勢いでモニターを申し込んだ男は、家に帰り、物をおく場所のないリビングを眺め「はたしてここにあのQ:を設置できるものか」と悩むのだった。
----
というわけで、Q:のモニターである。まともな感想やらレビューが見たい人はこちらを参照してください。ここに書くのは私の身に起こった様々なできことだ。
Q:を発送しました、という連絡があったのが木曜日。金曜日家にかえったら届いているかな、、と思えば「不在配達票」とかそういうものが入っている。どうやら家の人間が不在だったらしい。翌日「あの不在票はどうした?」と聞くと
「今日の6時以降に頼んでおいたわ」
と返事が来る。さようかと思っていると、そのまさに夕方、奥様から電話があり「今日遅くなったから外で食べよう。子供つれて出てきて」ということである。ちょっとまて、今から荷物が来るというのに、、と文句を言える場合ではない。黙って子供に服を着せ、外にでる。
食事をすませ家に帰れば、やはり不在票が届いている。私は「明日の午前中届けてください」とお願いをする。この配達のやり直しって何度までやってくれるのだろう。こんなことをしている間に、モニター期間が過ぎてしまったら目も当てられない。
今回のモニター参加者のための掲示板というのが設置されており、そこには続々と「設置しました」という書き込みがなされている。ああ、どんな音なのだろう。聞いてみたい。どうやってつなごう。奥さまを説得するためにはぜひクラシックですばらしい音がでてほしいものだが、とかあれこれ考え続ける。それとともに
「あのリビングにはたして設置できるのか」
という疑念も頭の隅に残り続ける。
さて、日曜日である。私は家にいるから、荷物は受け取れます。子供たちを連れ出してほしいと言われ、素直に子供たちの手を引き近くの本屋に行く。立ち読みするだけである。帰りに近くの図書館で本を借りる。さて、と家に戻れば、黒い「Q;」とかかれた箱をもったお兄さんが歩いている。あれに違いない。
やれうれしや、ということで家に戻れば奥さまはまさに私の部屋を掃除中である。そこに「ぴんぽん」と呼び出し音が。たたたたととをあけ、荷物を受け取る。黒い大きな箱だ。とりあえず自分の部屋に置く。すると奥様が
「これは何?」
と聞く。私は
「スピーカー。すごくいい音なんだ。モニターに応募したから2週間借りられるよ」という。
その瞬間奥さまの怒りが炸裂する。
「そんなものどこに置くのよ。だいたいこの部屋は何。わけのわからないものがあってちっとも掃除できないじゃない。あの本棚の上にあるカセットとかもうきかないでしょ。全部捨てなさい。あたしがひと拭きで掃除できないでしょ!」
思えば奥さまはこのような恨みの言葉を吐きながら私の部屋を掃除していたに違いない。そこに素晴らしいタイミングでQ:の到着だ。そりゃお怒りにもなるわな。
しかしなあ、、これじゃとてもリビングにQ:を置いてためさせてくれなんて言えない。それどころか箱を開けるのさえ危険すぎる。しょうがない。もうこのまま箱も開けないで返そう。せっかく送っていただいて申し訳ありませんが、返品します。申し訳ありません。申し訳ありません。
それはそうとして、部屋の片づけをしなくてはらない。自分にとってはいろいろ思い出がつまったビデオのたぐいだが、捨てざるをえないようだ。とりあえず我慢できるものはすべてすててしまう。あれをこちらにやり、これをそちらにやり、となんとか本棚の上が奇麗になる。これで掃除もできるだろう。
というわけで翌日も過ごす。掲示板をのぞけば、いろいろな感想が書き込まれている。一番巨大なサブウーハーが取り出しにくいという言葉にさっそく中道社長から「改善します」と返事がくる。ううむ。このスピードはすばらしい。しかし私に試す機会は訪れなそうだな。。
などと考えているうちに、他の人のレビュー記事を読みだす。そこで私は一筋の希望を見出す。
【Q:モニタープログラム】サラウンドスピーカ『Q:』を設置してみる【ハイビジョンサウンド会議】という記事を見ると、なんとMac Bookの周りに設置しているではないか。そうか。リビングに置かなくてもいいんだ。私の部屋の中にちんまりと設置するだけならきっと許してもらえるだろう。
というわけで火曜日、仕事を早めにきりあげ家に帰る。とはいっても家の仕事をあれこれしなくてはならないから腰を据えて設置というわけにはいかない。しかし短い時間をかき集め箱を開ける。中には大小様々な箱が詰まっている。それをひとつづつあけて中身を取り出す。思ったより小さい。一番小さな箱を開けると中には何もはいっていない。外を見れば
「これはスペースを埋めるための箱です」
とかなんとか書いてある。ちゃんと注意書きを読みましょう。最後のサブウーハーは多くの人が書いていたように取り出しに苦労する。しかし私には時間がない。強引に取り出してしまう。設置もきわめて簡単。スピーカーにつながるコネクタは形が違うので接続間違いのしようがない。ちょこちょこしているうちに設置完了である。
さて、では音を聞いてみましょう。というわけで「プリキュア」だ「ポケモン」だと言っている子供たちをどかせる。Mac Book にアナログで接続し、さあ電源On.
しかし何も聞こえない。どうしたことかと思えばボリュームが0だった。どどどどどと上げていくと音が流れ出す。
最初は「あれ、こんなものかな?」と思う。しかし何曲か聴いているうちに、それが今までとは全く異なる音の体験であることに気が付く。ブラームスの一番を流す。曲の冒頭、ティンパニーの音が規則的に響く。のだめカンタービレでは、マスミちゃんが大活躍する場面だ。それを聞いてるうち思わず目をとじて聞き入っていることに気が付く。
「思わず目をとじる音」
なんてコピーとして、、、だめですね。すいません。でもいいんです。実態はその通りだから。
しばらくあれこれ聞いた後、iTunes Storeで買った「崖の上のポニョ」を聞く。すると子供部屋から
「お父さん。ポニョが聞こえて眠れないんですけど」
と子供たちの声が響く。すいません。もう消します、というわけでその日のQ:体験は終了。週末には光ケーブルで接続してDVDを見てみよう。
2008-11-04 00:00
さて、ちょっとお久しぶりです。第一回目は出席者がいませんでしたが、今日も誰もいないようですね。これでこそ駄目な講座といえるでしょう。拍手!
(教室の中に講師が手をたたく音が響く)
さて今日の課題です。
ぼくは、このエントリーにコメントをつけるようなうすらバカが現れたら、もう少し彼らのことを観察したいと思う。彼らはなぜこの世に生まれ、なぜ存在するのか? 目的は何か? 彼らはどこから来て、どこへ行こうとしているのか? そもそも、うすらバカとは一体何なのか?
うすらバカを目立たせるのがはてなのブコメ - ハックルベリーに会いに行く
このエントリーにブックマークをつけ、かつ自分がうすらバカではないと主張するためにはどうすればいいか?想像力が問われますよ。
まずよくありがちなパターンです。
「人をバカっていう人がバカなんです!」
「バカにバカって言われたくない!」
正論と言えましょう。しかしこれでは小学生の口喧嘩です。小学生レベルが悪いわけではありませんが「駄目」という言葉にふさわしいかといえば、いささか首をかしげざるを得ない。
とはいえ今回の課題は難しいですね。「うすらバカでーす」と開きなおる方法も考えられますが、それもいま一つ趣にかける。では先生はどうしたか?
今回のエントリーは先生が書いたコメントを引き延ばしたものです。つまり勝手に「出題者」という立場に身を置くことによって
「ブックマークをつけたい。でもつけたらうすらバカ」
という構図から身をそらしたわけですね。しかしこれはそらしただけで、何の問題解決にもなっていません。
では先生が二番目に「ダメ」と思うブックマークコメントを発表しましょう。
「モスラ馬鹿」でボケるネタを思いつけなかった orz
「モスラ馬鹿」いい言葉ですね。惜しむらくは、それでうまくボケにつなげられなかったこと。「うずら馬鹿」とかもありますが、やはりここはよいフレーズを考え付くだけではなく、落ちまできれいにつなげたいところです。では先生が一番に挙げたいコメントを紹介します。
頭の薄い馬鹿の何が悪い。
これですこれ。「うすらハゲ」という言葉を表にださず、なおかつきれいに落ちています。駄目ブックマーカーを名乗るならやはりこれくらいのコメントを残したいものです。拍手!
(教室の中に講師が手をたたく音が響く)
さて、次の講座の日程は例によって未定です。また美しいコメントに出会えることを祈りつつ、今日はお別れしたいと思います。