2009-02-27 07:08
というわけでしつこくぐにゅナビである。しかし今日書きたいことは、ぐにゅナビに限ったことではない。
人間の興味に応じて情報を提示、とは耳にタコができるほど聞かされたフレーズだ。
問題は
はたして人間の興味とは静的なものなのか?
という点だ。
答えは
対象に依存する。
というもの。たとえばどうしても吉野家の牛丼が食べたい時には、最寄りの吉野家の位置をすぐに表示してもらいたい。これは精度で測れる話であり、なぜ測れるかといえば人間の興味が固定されているからだ。
しかし
漠然とお昼に何を食べようかな、と思っている時、あるいは”何か面白いビデオないかな”と思っている時人間の興味は動的に変わっていく。(これは実験の結果から明らかだ)実にぴょんぴょん跳ね回る。このビデオを見てほしい。
漠然と”お昼に何を食べようかな”と思っている時の人間の興味はこのインタフェースくらい動的にあちこち移動する。
であれば、インタフェースもこのように動的であるべきだと考えるのだ。ぐにゅナビはこれに比較すればどうしようもなく静的である。キーワード追加などという面倒なことをせず
”何か違ったもの”
くらいのあいまいな意図でも受け付けるようにしなければならないのだ。
過去において技術的な制約からインタフェースが静的なものにならざるを得なかったのはわかる。しかし現在CPUパワーは有り余っているのだ。
なのになぜ興味が動的に変化すると思われる場合でも、静的なインタフェースばかりが生み出されるのか?
2009-02-26 08:48
先日見つけたブログより
最近とみに思うのは、新しくその世界(コミュニティ)に入った時、あるいはこれから入るべきか悩んでいるときに"その筋のブログ"を簡単に知る術がないこと。
(中略)
アルファブロガーアワードなどのイベントでは細かいジャンルにわけてジャンルごとの有名Blogを認定していく、といった活動ができないものだろうか。まずは"料理好きの間での有名Blog"の選定あたりからはじめて、"自分で料理を作る人の間での有名Blog"→"自分でカレーを作る人の間での有名Blog"へと深めていってほしい。何年かかけて、情報発信者数が増えるに従って、の話ではあるが。
ビジネスの世界でも同じで、デジタル家電業界ならココとココ、モバイルサイト制作ならココとココ、といったように認定する仕組みを上手く作ってゆければ、タコ壷化も避けられるのではないかと思うのだが、どうだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/wa-ren/20090222/p1
提案している手法は違うが、根っこにあるのは私が妄想している”スタンス共通検索”と同じだと思う。つまり
”今は自分が知らないが興味を持っている分野”
に関して”定番”だったり”自分が共感できる”ブログ、サイトを知りたいと思うのだ。ビットの泥沼に沈んでいくのを防ぐことにもつながる。
私は自分が知っていることの範囲内だけを知りたいのではない。自分が知らないこと、存在すら知らないことを知りたいと思うのだ。自分の無知さ加減を知り、逆に離れた(と思っている)分野にも共通する要素を知り驚きたいと思うのだ。
そういうときに、↑の記事で書かれている人力推薦も有効だろうし、スタンス検索も(まともに動けば)有効な手法ではないかと思うのだがいかがなものだろう。
先日某検索エンジンの人たちと話して、スタンス検索の話をしたがうまく伝わらなかった。。しくしく。もっと
2009-02-25 07:23
というわけでぐにゅナビである。
今日はこれを題材に”なぜ階層構造のメニューは人をいらいらさせるか”について具体的に書いてみたい。
トップメニューから”ムード”を選択する。今の私は疲れているのだ。だから”ムードは?”と問われれば”疲れた”と答える。
そんなことを考えていると画面にこんな言葉が表示される
テクニカル
いろんな色
かしこい
かわいい
きれい
これだけで使っている私はキレそうになる。テクニカルって何?ひょっとしたらここに私が探している答えがあるかも。そう思ってクリックするとこんな言葉がでてくる。
あこがれ
いろんな色
ハイテク
上手い
もうここで使用終了。
というかこう書いていて、あまたある階層メニューの中でもこんな変なものにはお目にかかったことがないことに気が付く。というわけで題材としては適当ではないかまあこれでいこう。
問題は
・自分が入力したい言葉がどの階層の下にあるのかわからない
・そもそも自分が入力したい言葉がシステムの中にあるかどうかもわからない。
・階層を下っていき、間違いとわかったらまた階層を登りなおし、別の階層を下らなくてはならない。
かくの如く階層メニューというのは使い勝手が悪い。しかしなぜ根絶されないかといえば
・作り手と使い手の間に一定の階層に関する理解がある際には上記の問題があるていど緩和される。ウィンドウを用いたアプリケーションのメニューを例にとろう。Fileメニューには何があるか。そもそもワープロのたぐいだったら保存とか新規文書とかあるだろう、とかある程度使い慣れた人であればそうした”常識”を作り手と共有できる。
そうした状況であれば、私が今回感じたようなフラストレーションをある程度感じずに使うことができる。マイクロソフトが愛するリボンは、第一階層を画面幅を使って提示する仕組みを持っているが本質はあまりかわらない。
・作り手があまり何も考えずに物を作る時には階層メニューというのは実に作りやすい。ぐにゅナビの場合はこれだと思う。
じゃあどのような代替案があるか?
今やインクリメンタル検索はどこでも見かける。キーボード+インクリメンタル検索+LSIを用いればある程度ユーザの希望に近い言葉を早く提示することができるのではないか。
ここから一歩進めれば
それに加えてユーザのジェスチャを入れさせることにより
”もうちょっと違うの”
”おしい”
”全然違う”
といった入力をさせれば、自分が思いもしなかったキーワードに辿りつける可能性も出てくる。
いいたいことはこうだ。階層メニューの問題は私なんぞが指摘しなくても多くの人が指摘しているところだ。そのご時世に最低に使いにくい階層メニューを堂々と使い、しかも公開する、というのが私には理解できない。
実験的システムを公開しようというのは素晴らしいことだと思う。しかしそれならば”粗削りだが、確かに可能性を感じる”といったものにしてほしい、と野次馬としては思うのだ。
2009-02-24 06:57
結婚して家族持ちになってから貧乏になったし、時間もなくなったので最近エロ映画を見ることはない。
しかしそれまではちょくちょく見に行っていた。
もちろんどうしようもなくくだらないものは多い。しかし時々
”とってつけたようにエロシーンがでてくるけど、筋が面白い”
ものがあったことも確かだ。
もう題名は忘れたが、郡山でふらりとはいった映画館でみたものはこんな筋だった。仲間が何人かで共謀して銀行強盗をやる。映画製作の金がほしかったからだ。一人を警察に自首させ、金は隠す。
その男が出所して元の仲間を探す。今こそ映画を作ろう、と。しかし仲間たちはもう自分の生活を手に入れてしまい映画制作に興味を示さない。
そのほかにもコミカルなもの、妙に実験的な映像がちりばめられたもの。いろいろなものがあった。
さて、アカデミー外国語映画賞受賞作品の監督である。
滝田洋二郎監督作品
# 痴漢女教師 (1981年)
# 痴漢電車 満員豆さがし (1982年)
# 官能団地 上つき下つき刺激つき (1982年)
# 痴漢電車 もっと続けて (1982年)
# 連続暴姦(1983年)
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51435355.htmlより
この監督が撮影したエロ映画がどのようなものだったか。私はちょっとみたいなと思っている。さらに同じページを読んでいけば
昔の日活は「エロさえ入ってたらなんでもよかった」ので
若い監督が自分のやりたいようにやって腕を磨いてたわけ。
だから日活ロマンポルノ出身の監督は結構いる。
映画好きには常識。
こういうことのようだ。そう。エロ映画には面白いものもあったんだよ。
もちろん実験的な作品を作り、無名のまま監督業を終えた人の方がはるかに多かったのだろうけど。
ちなみにさっき説明した映画を見終わり、(最前列に座っていた)ふと後ろを振り返ると、あちこちでラブシーンが演じられていることを知って驚愕したのは内緒だ。もちろん館内は男性ばかりだった。
2009-02-23 07:36
他人がどう評価を下すか、というのは私の預かり知らぬこと。全体的に見れば作品賞にノミネートされるものは大抵面白いと思う。それでも
”グラディエーター”
と
”ディパーティッド”
が受賞したのは未だに冗談としか思えないが。”バベル”はまあ許容範囲(大嫌いだけどね)
というわけで、記憶に残っている範囲で今年の”ごんざれふ賞”発表ぱちぱちぱちー。(誰も聞いてません)
作品賞、監督賞、その他もろもろ:
ベンジャミン・バトン or チェンジリング
もうどっちでもいいです。人生の悲喜劇を静かに、肯定的に描いたベンジャミン・バトン、人間の強さと”希望”を描いたチェンジリング。主要なところは全部あげます。
主演男優賞:
ブラッド・ピット@ベンジャミン・バトン
いや、これがかっこいいんですよ。中身が若者の老人とか、中身が老人の10代男性とか。CG+メーキャップ+演技で受賞。
主演女優賞:
アンジェリーナ・ジョリー@チェンジリング
醜い顔を惜しげもなくさらし、それでいて観客の視線をくぎ付けにする、なんて芸当が他の誰にできる?いや、できる人はいるだろうけど、クリントイーストウッドの力量と組み合わされるとその効果は圧倒的。
助演男優賞:
バットマンのジョーカー
映画を見ている最中に足もとがおぼつかなくなるような、善とは、悪とはと何度も考えることになる。
長編アニメーション:
崖の上のポニョ
いや、まだ米国で公開されていないからとか難しいことは言いっこなし。Wall-eはいい映画だったけど、わけのわからなさでポニョが受賞(きっぱり)
ドキュメンタリー:
ヤング@ハート
私も年取ったらやるざます。そのためには有能な音楽監督見つけなくちゃ。。
最優秀B級映画:
デスレースとシューテムアップ
最優秀B級映画をとるためには、開き直ってなくちゃね。両作品とも実にすがすがしいまでにB級。
最低映画評:
ハプニングと地球が静止する日
観客を不愉快にさせたいとしか思えないハプニング。おしみなく金を無駄にした地球が静止する日。丙丁つけがたいが、どちらかといえばハプニングの方に分があるか。
というわけで来年のごんざれふ賞発表までさよーならー。
2009-02-19 07:06
例によってネタのない日は本家から転載。
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80歳で生まれ、0歳で死ぬブラッドピットの物語、かと思えば最後の時が近い母親と娘の会話が始まり少々めんくらう。
母親が、娘に” 日記を読んで”と頼む。そこからベンジャミン・バトンの物語が語られていく。生まれたときの異様な姿故、父親に捨てられた彼は、老人ホームのよ うな場所で育てられることになる。”成長”してからは船乗りになり、第二次大戦を経験し、、、と話は続く。
人は誰でもおむつをつけた赤ん坊からはじまり、おむつをつけた老人として終わる。年をとるに従い体は若返っていくベンジャミンもその例外ではない。その一生はあくまでも穏やか(Uボートと打ち合いをすることを穏やかというのなら)であり、
”人類の未来につながる秘密を持った人間”
として各国諜報部が争奪戦を繰り広げるなんてことはない。
人 はおむつをつけて始まり、おむつをつけて死ぬ。その短い間に人と出会ったり、恋愛をしたり、馬鹿な事をして相手を傷つけたり、家庭を作ったり、旅をした り、働いたり。そして年をとればみんな忘れてしまうのだが、それでいいのよ、とケイト・ブランシェットは語りかける。ピグミー族の男は”肌が何色だろう と、みんな孤独なんだよ”と言う。
なんでも演じられるケイト・ブランシェットは相変わらず見事だが、個人的にはブラッド・ピットの姿に感心 した。中身はいたずらっぽい青年である老人、とか中身は老人の10代の少年とか。CG+メイクの威力か、彼の演技力故かはわからないのだが、そうし たアンバランスさがうまく表現されていたように思うのだ。いかにも”英国美人でございます”といった外交官の妻がほれてしまうのも無理はない。
見ているうちにSteve Jobsが行った演説の一節が思い出される。
"君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。"
我ら、地域の仕掛け人!より
多くの人が感じる事だと思うが、どこか”フォレスト・ガンプ”に似た空気を感じる。少し”数奇な”立場にある人間を主人公にしてはいるが、描いてい るのはあくまでも”普通”の人生。そして悲喜こもごものイベントを取り入れながらその底には徹底して人生を、そして死を肯定する立場があるからではなかろうか。いまこうして書いてみれば、それはSteve Jobsのスピーチにも相通じることなのかもしれない。
今年のアカデミー賞に多数ノミネートされているそうだが、観れば納得である。隣で観ていた中学生は途中で携帯を見ていたけどね。映画の中の台詞に言う”折り返し地点をすぎた”年でないとこの映画の良さはわからないかもしれない。
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というわけで久々にこの映画には1800円の値段をつけることになった。
チェンジリングも期待はしているが、、監督が監督だけに”ずどーん”と思くなる映画という気もしている。
2009-02-18 07:07
gooがまたまた映画の”好みにあった”ものを出してくれるシステムを公開したようだ。
ぐにゅナビ
・そもそも”使い方”を読まないと使えない。読んでもよくわからない。
・ジャンル、ムード、キーワードを選ぶというが、形だけアニメーションで見せても結局普通の階層構造でキーワードを選んでいくだけ。
階層構造でキーワードを選ぶのは、ストレスがたまるばかりで役にたたないと何度言ったら(何度言ったんですか私?)
自分が表現したい言葉があったとしても、それは何度もわかりにくい”上位の言葉”を選ばないと到達できないし、そもそもシステムにその言葉が登録されているかどうかもわからないでしょ。
・人間は自分のムード言葉で表現したりしない。これ作った人は”あなたのムードを階層構造を下って言葉で選んでください”と言われて本当にやりたいと思うのか?
・ムードなんてのは、秒単位で変わっていくものだ。それこそ表示された映画のジャケットを見てムードが変わることだってあるだろう。
・これはぜひ聴きたい。これを作った人間は自分でこれ使ってるのか?楽しいと思って使ってるのか?システムに一番同情的な立場で見るはずの製作者にそれができないなら、誰もつかわないよ。
と文句ばかり言って自分では提案できない野郎と思われるのは、まあ当たってはいるが、半分心外なので、これを貼っておく。
2009-02-17 07:50
中川財務・金融相を見て感じるのは
”酒飲みってのはどうしようもないもんだなあ”
ということ。酒はでたが手をつけていない、とか口に含んだだけ、とかいうのは飲酒運転で捕まった人間がするいつもの言い訳だ。
これが映像がない時代だったら
”そんなにひどい状態には見えなかった。誰かが大げさに言っているのではないか”
でおしまいだったのだろうが、今や世界中の人が繰り返し繰り返し醜態を目にすることになる。
風邪薬でも確かにふらふらになるだろうが、自分が会見に臨める状態か、という判断力まで奪うことはない。あの状態で会見に臨むというのは判断力を失った状態であったと考える他ない。
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こんな文章を見つけた
実は、3年前、Uさんというお施主に頼まれて、RC造の家を解体し、ツーバィフォーのR-2000住宅に建替えたことがあった。
そのRC造は、若手の建築家の作品で「新建築」や「建築文化」などに「新進気鋭の若手建築家の打放しコンクリートの家」として10年前に大きく紹介された。
ところが、新婚の奥さんは、その家をみてへたり込んだ。「こんな、動線が悪く、収納スペースもなく、階段がやたらと威張りくさっている家に何故私が住まなくてはならないのか」と。
http://homepage3.nifty.com/net-forum/honnne/honnelink/20020302.htm
この文章を書いた人が言いたいことは”安藤氏のコンクリート住宅はけしからん。それをのさばらせておく連中もけしからん”ということらしいのだが、私は全く別のところで驚いた。
↑の文章を信ずるとすれば、新婚の奥さんは家の設計建築に全く関与していなかったように思えるからだ。なぜそんなことができるのか?
2009-02-16 07:12
例によってネタのない日は本家から改変しつつ転載。
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映画の冒頭カストロがゲバラからの手紙を読み上げる。自分は新たな革命に身を投じると。
彼が向かった先はボリビア。そしてキューバで成功したゲリラ戦による革命を再度試みる。捕虜を殺さず、農民を尊敬し、病人がいれば診察してやり、志願兵を受け入れる。まるで前作そのままである。
しかしそこからの経過は大いに異なる。映像は山中の道なき道からほとんど離れない。ゲリラの勢力は拡大する事なく、政府は脅威を感じつつも、米国の協力を得て組織的に反撃してくる。
ほとんどの時間、ひたすらチェ達は山中を移動し、時々戦闘を行い、そして坂道を転げ落ちるように敗退していく。そもそもボリビアの農民達はこれ以上の革命を欲していないのだ。革命が成れば貧しさから脱却できる、と呼びかけても、彼らの反応は
”戦争はよそでやってくれ”
だけ。
それでもチェ達はあくまでも戦い続ける。カストロは豪華なランチを食べ、チェは野宿している。そうした言葉は事実かもしれないが本質をついていない。チェは自らの中にある革命だけを目指している人間なのだろう。彼にとっては平和な地での生活より、ゲリラとして革命を目指している方が快適なのだ。 キューバではそれが現実と合致しており、ボリビアでは現実から遊離していた。それだけのこと。こうした人間は自身が変わらなくても、状況の変化により勝ち 続けたり、負け続けたりする。そうした意味ではどこまで行っても平和の中に安住できず、人生の後半は失敗の連続だったヒトラーの姿を重ねることもできるかもしれない。
映像はその姿を淡々と映し出す。主人公が最初から最後までただ負けていく映画は初めて見た。2部作の後半であることを差し引いても、実に珍しい映画と言わねばならない。そしてその静かな映像にじっと見入ってしまったのは驚きだった。
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この映画に対する感想を読むと、チェを偶像化したものが多いことに気が付く。たとえば”今の日本にはチェのような人が必要だ!”とかね。
この映画を製作した人たちの意図はそこから遠い所にあると思うのだが、まあ受け取り方は人それぞれだ。
私にしてみれば、あのTシャツに描かれている人はどんな人かと考えるきかっけを得ることができたのが収穫。チャンスがあれば彼の日記を読んでみたいと思う。
2009-02-13 07:57
私は年をとったので、30年前のことを語ることもできる。
自家用車にあこがれをもたず、TVがなく、プロ野球も、プロレスもない世界
もし30年前にこれらの変化が突如として起こったら大騒ぎになっただろう。しかし今やそれらがなくなっても誰も何も言わない。
みんな携帯電話の画面に向かってせわしく親指を動かしているからだ。
地デジ移行とともにTVは崩壊すると思っていたが、それより崩壊は早いようだ。
10月はテレビ局にとって、年に2回の番組の改編時期だ。つまり、テレ朝は、あと1週間余りで新番組が始まるにもかかわらず、複数の番組でスポンサーが固まっていないという“異常事態”に陥っていたのである。しかも、前週の9月17日から、懸命に営業努力したにもかかわらず、1週間で埋まったのは、たった1分という惨憺(さんたん)たる状況にあった。
http://www.toyokeizai.net/business/industrial/detail/AC/ec45867b4c8994f6c1b4da13d4bd71c6/
今や誰もが知っていることだが、TV局は番組を作っていない。作っているのは低賃金で働かされている下請けの制作会社だ。
だから高給ランキングで上位を独占しているTV局を外せば、もっと低コストで番組を販売することができるはず。しかしそれが起こらないのは独占的な電波の利権を保有しているからだろう。
不況になっても、給料を下げることはないだろうから、下請けを切っていく。するとそのうち番組を作ることができなくなる。
この終着点がどこか私にはわからないが、我が家においてもTV
みる時間が減っているのは事実だ。
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自動車業界が軒並みひどい状況に陥っているのはおそらく研究の価値がある事象と思える。たった一年でこんなに状況が変わる、というのはよっぽど無理な構造の上に売上を積み重ねていたに違いない、と思うのだが門外漢には定量的な分析ができない。
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今の若い人には想像もつかないと思うが、かつてはゴールデンタイムにプロレスが放映されていた。私がファンだったのはその末期だったのだろうか。生き残りのため、バラエティと合体させられた番組の冒頭で
”いーのーき”
と叫んでいたのは私です。録画しておけばよかったなあ。
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プロ野球の凋落も興味深い事象ではある。現実から目をそらし続けてきた日本テレビもとうとう中継の大幅削減に踏み切った。おそらくはスポーツ新聞も同じように凋落の道をたどるのだろうが、東スポだけは独自の道を歩み続けるのであった。。てそういえば一時ほどスタンドにならんでいる東スポの見出しをみかけなくなった気がするな。
2009-02-12 07:09
麻生君は、やれ漢字が読めないだの、発言がぶれている、だとの批判を浴びているようだ。
それらがどんなものであるか、それにどんな意味があるのかは私の関心事ではない。漢字を読み間違えようが、言ったことが180度変わっていようが、どうでもよい。とにかく景気を良くしてください、というのが多くの国民の思うことではないかと思う。
さて
今日言いたいのはそのことでもない。
仮に会社の上司が麻生君のような読み間違いや、発言のぶれをしたとしよう。
誰がそんなことを気にするのだろうか。いや、気にしたとしても誰がそのことを指摘するのだだろうか。
仮に
”部長。この前言ったことと全然ちがうじゃないですか!”
などと言おうものなら、仮にその場は溜飲を下げたとしても、1年後には首になることだろう。ここでちょっと友達の話をしよう。
友達は社長にある構想を説明した。社長は”僕はロングテールをマーケティングの対象にするのは非効率じゃないかと思ってるんだよ”といった。まあTVでCM流せばものが売れた時代の人だからしょうがない、と思い、友達はそのまま引き下がった。
後日皆の前で全く別の構想をプレゼンした。説明の中にはロングテールなどという言葉はどこにもでてこない。
ひとしきり質疑応答があった後、社長が”僕はロングテールを。。”と全く同じコメントをした。友達はそれを黙って聞いていた。しかし我慢できなくなり
”今日私はロングテールについてはひと言も触れていませんが”
と言ってしまったのだ。
その結果友達は1年後にはその会社を追い出されることになった。
俺も馬鹿だったよ。いや、違う。上司に従い、馬を鹿と呼ぶような馬鹿になり切れればまだあの会社にいたかもしれない、と友達はぼそっとつぶやくのだった。
かくのとおり会社の上司という立場と、日本国の総理大臣という立場は随分要求されるものが異なるようである。
会社の上司という点では最強に近い某御手洗氏も、あれこれボロが出始めているようだが、幸いにも彼は政治家ではない。なんとかこの危機も”なかったこと”にするのではないか、と野次馬としては見ている。
2009-02-10 06:57
荘子と、自省録とを引用しながら、現在世界が直面している金融危機、それに日本の政治屋の行く末について大論文を書くはずだったのだが、2chのあるスレッド(正確にはスレッドまとめサイト)をみてすべてキャンセル。
あぁ 俺もう独身じゃないんだぁと思った瞬間。より
言葉を発する前に
「これを言ったら空気が悪くなるかな」と考えてからしゃべるようになった
あんまり本心を言わなくなった
自分の事は言わなくなった
無口になった
世界中のお父さんが何故ここまで無口で謙虚なのかやっとわかった
なんか部下扱いなんだよな!
いつも逐一連絡
気に入らないことがあればこっちが平謝り
いつも気を使ってる
機嫌損ねたら1日が最悪
わざわざ強調しておく必要もないと思うが、私はこれらの意見にはなんら共感を覚えない。しかし友達の話を聞くと、彼はきっとこれらの意見を読み涙を流すのではないかと思う。
いや、彼によれば、会社も似たようなものだそうである。所詮人間他人の話なんか聞きたいと思っていない。自分のことを話すのが楽しいのだ。骨髄移植を受ければ血液型が変わるのだが、そんなこととは関係なく、B型の人にかこまれたAB型の苦悩について語りたいのだ。
であれば
ただ聞くしかないではないか。うんうん。そうだね。それは大変だったね。会社だったら、それはすごい経験ですね。興味深い話を聞かせていただきありがとうございます。もっと聞かせてください。
そうしているうち、いつしか自分の感情が表に出ることはなくなる。ただ黙っていればいいのだ。しゃべるとすれば、相手がご機嫌になることだけいえばいいのだ。そうしていれば世の中は平和なのだ。それしかできることはないのだ。
私の友達はそうつぶやいた。そして
”これもくだらない自分語りだね”
とさびしそうに付け加えると口を閉じた。
2009-02-09 08:05
がいれば、適当にあやす。同じレベルで正面から
”なぜこんなにわけのわからないことを言うのか。言っていることに筋が通らないではないか”
と悩んでもしょうがない。
社会生活においてわけのわからないことを言う人は多い。しかしそういう人たちは
”ああ、この人は寝起きが悪いのだ”
と思うようにしよう。そうすれば不必要に悩んだり起こったりすることもなくなる。
子供の寝起きよりはちょっと長い間ぐずっているかもしれない。しかしそれもいつかは終わる。ほんの少し長いだけであまり変わるところはない。
2009-02-06 07:00
疲れがたまった金曜日は本家から改変しつつ転載。
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大ヒットしたミュージカルの映画化。女性3人が怪しげ、かつ大げさな衣装で踊っている宣伝の写真は確かに見た事がある。
ギリシャのある島でホテルを営んでいるのがメリルストリープ。その娘が結婚するのだが、父親が誰だかわからない。母の日記を見つけて候補となる3人を呼び寄せ、あれやこれやの大騒ぎがおこる。
いつものことながらミュージカルの映画化は難しい物だと思う。例によって頭の中で”これは舞台だとどのような演出なのだろうか”と想像しながら時間をつぶす。私はABBAのヒット曲が流れれば涙する世代の筈なのだが。
主人公の娘がどうにもチャーミングではない。やたらと目がでかいのだが、ただそれだけである。母と娘がそれぞれ3人組でキャーキャー言うところは、日本人の男性である私にはとてもついていけない。
というか全般的に暑苦しく、無駄な詳細が見えてしまっている気がする。舞台から遠い客席から、かつ現実とは異なるセットで見せていればそれほど気にならないのかもしれないが。。父親候補の3人には私でも知っている有名どころをずらっとそろえた。今の時代だからみんな音程とテンポ正しく歌いまくる。(なんとでも修正できるからね)しかし感動を呼ぶ歌を期待するのは望み過ぎ。特にクライマックスの歌で退屈してしまうのはいかにももったいない。
かように今ひとつな映画なのだが、一カ所だけ鳥肌が立った。代表曲Dancing Queenが流れる場面だ。いや、その場面自体がどうのこうのと言うのではない。私は初めて歌詞をまともに聞き、その意味について考えたのだ。もっと言えばそれに意味がないことについて思いを巡らせたのだ。何の理屈もなく、Dancing Queenとして踊る。確かにそれは17歳の特権かもしれない。
そこに個人的に感動はした。しかしDancing Queenがなければ(この映画でそれはあり得ない事だが)この映画の評価はもうワンランク下る。
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ミュージカルを映画化した作品を見るたび、演出方法の差異について考える。
舞台の人たちは表情を非常に大きく作る必要があると思う。あまり繊細な表情は見えないからだ。対して映画は大写し。
舞台のセットはあくまでも観客の想像力の方に重点がある。対して映画のセットは基本的にリアル。
アマデウスも舞台の映画化なのだが、舞台の脚本家?と映画の監督の間で大ゲンカしながら脚本を練り上げたとか。それくらいしなくちゃだめだと思うのだよね。
2009-02-05 08:25
協議会は今後も、著作権保護期間の延長を訴えていく方針。三田さんは「延長しても利益が出る著作物は限られている。金銭的な利益のために保護期間の延長を求めているのではない、プライドの問題だ」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0901/23/news117.html
ここまでくると、もはやなにをか言わん、といった状態なのだがまあまともに取り合ってもしょうがない。
最近iPhone上で青空文庫を読んでいる。このようなテキストを入力してくれる方には感謝のほか言葉がない。
あれこれ読んでいてひとつ気がついたことがある。
たとえば芥川龍之介。歯車、河童などは高校生のころ文庫本で読んだ。
今はもっと有名でない作品、猿蟹合戦、桃太郎などを読んでいる。
すると芥川賞の発端であるところの大作家でさえも、
”なぜ作品が有名でないかといえば、それなりの理由がある”
ことに気が付く。一言でいえば面白くないのだ。今ネット上で手に入れることのできる情報は、泥沼のようなものだと考えているが、有名でない作品は、その泥沼に沈んでいくようなものと思える。
名もない人の短文であっても、これらの作品よりおもしろくかつ考えさせられたものがあったように思う。
もちろん全集とか読めばこうした文章に触れることもできたのかもしれない。しかし私のような貧乏人が芥川の全集など買うことはまあありえない。
そう考えれば、やはり”ビバ!著作権期限ぎれ”と言いたくなるわけだ。その人はどんな作品を残したのか。自分で触れ考えることができるのはやはり素晴らしい。只だから”高い金払ってつまらない作品読むとは”と後悔することもないしね。
ちなみにシャーロックホームズシリーズでも”有名でない作品にはそれなりの理由がある”はあてはまる。というか、なんだかホームズがのんびり移動してるなあと思えば、それは不必要に被害が拡大するしるしなのだ。
さらにちなみに夏目漱石の文章は、断片的なものであってもどこか味があって面白い。また太宰とか石川啄木とか、どうしようもない駄目人間だなあ、、とかあれこれ発見した気になっている今日この頃である。
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(追記)ちなみに文豪達のダメ人間さかげんに関する考察はこちらを参照されたい。
2009-02-04 07:50
ソニーのvaio-pについては以下の意見が参考になると思う。
むしゃ : やっぱハードは素晴らしかったす。
のま : じゃあ諸悪の根源はVista+VAIOアプリってことで(笑)
http://www.gizmodo.jp/2009/02/vaio_type_p_4.html
そう考えているとき、このような記事を読む。
複数の信頼できる情報筋が太鼓判を押しているという、PSP2の最大の売りは、まさにiPhoneさながらのマルチタッチインターフェースの実現なのだとか。画面全体を指でタッチしつつ、新感覚のゲームプレイが可能になるとのことで、これは事実ならば、かなり楽しみですよね。
http://www.gizmodo.jp/2009/02/psp2iphone_1.html
ソニーという巨大企業を個別の例で語ってはいけないのだろう。しかしここ数年ソニーのソフトウェアに失望こそすれ、感動したことがないことを考えれば,PSP2がマルチタッチ対応になる、というのとそれがiPhoneを超えることとは全く別の話のような気がする。
ソニーをソフトウェアで復活させようとすれば、それはもう人の入れ替えしかないのではなかろうか。ソニーにそれができるかどうかはわからないが。
2009-02-02 07:23
そういえば人前でプレゼンする機会がないな。。
さて、先日見つけたのが以下の記事である。
1. 「しゃべりはプレゼン資料と一致させる」と固く誓う
2. 「プレゼン資料は事前に配り、出し惜しみしない」と固く誓う
私が考えるプレゼンを良いものにする「6つの誓い」
http://d.hatena.ne.jp/shinwada/20090131
筆者の主張は理解できる。しかし必ずしも同意はできない。
上記二項目を忠実に実践したとしよう。すると事前にくらばれた資料を、そのまま読めばプレゼンを聞く必要がなくなってしまう。(しゃべる内容とプレゼン資料は一致しているのだから)しかも人間は聞き取るよりずっと早く読むことができる。
つまりここで筆者が主張している方法を実践すると、聞いている方は配られて資料をあっというまに読んでしまい、あとは同じ内容の繰り返しを延々聞かされる羽目に陥るのだ。
そもそもプレゼンの目的は何か?同じ記事の下の方にはこのような記述がある
かっこよくて、斬新で、新しい。そんな必要は全くありません。プレゼンの目的「何かを伝える」は絶対忘れずに、プレゼンのテクニックはその「手段」であって、テクニックを磨くこと自体が「目的」とならないよう、気をつけましょう。私自身も。。
プレゼンの目的が”何かを伝える”であれば確かにこれでよい。
しかし、なぜわざわざ時間をとってもらい、人前でしゃべるのか?この記事の筆者はそこを全く考えていない。
なぜそんなことをするのか?ひとつは”自分”が主張しているのだ、と分かってもらうこと。つまり紙だけではわからない、主張している自分を知ってもらうこと。
もうひとつは、インパクトだ。これがなければ、プレゼンの意味がない。資料をメールで送付する方がずっと親切だと思う。
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思うにプレゼン資料というのは、以下の二つの目的があいまいなまま共存しているのではないかと思う。
・説明資料
・プレゼンを行うための舞台道具
上記に引用した筆者は”説明資料”という観点からしかものを書いていない。
”舞台道具”をつきつめていくと、Jobsのプレゼン資料になる。もちろん仕事によっては、説明資料たるべし、という主張もわかるのだが。