斜め上へ、もっと斜め上へ

2010-03-31 07:42

昨日の"待望のAndroid端末発表 by au"には笑わせてもらった。

Wilcom D4をAndroidで再現、といった趣のある"何か"である。そもそもこれはなんなのだ?

なお、通話は可能だが、ハンズフリー通話となるため、音が周囲にも聞こえてしまう。平型イヤホン端子を使ったイヤホンマイクや、Bluetoothヘッドセットなどを使っての通話が想定されている。

via: Android搭載のシャープ製スマートブック「IS01」 - ケータイ Watch

私の想像力がおいついてないだけだと思うが、誰がどんな状態でこれを使うのだろうか?小型PCにしては、キーボードが小さすぎるだろうし、通話は事実上無理だし。

一つだけいいと思うのは、少なくとも自社開発の端末を出してきた、ということだ。その姿勢は評価しよう。"自分たちで考え、製品を作る"ことは偉大なことだ。

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などという書き方は本来すべきではない。こういう製品が発表されたとき、"大人"の正しい書き方は次のようなものである。

まずはiPhoneやAndroid端末慣れしたメーカーとの直接対決は避け、いい感じに異なるマーケットの開拓したのはうまい気がするし、デザインなどの強みもうまく生かせてる気がする。

via: Twitter / Nobuyuki Hayashi林信行: #KDDI まずはiPhoneやAndroid端末慣 ...

いろいろな会社とつきあいのあるジャーナリストの方はこのようにうまく柔らかく返す。また批判的な意見を持ったとしても、

きょうのKDDI Androidの発表ですが、最初のモデルであるIS01に関してTLの評価は残念な感じ。セカイカメラのBREW版による実空間透視ケータイとの融合は好感されてました。

via: IS01? きょうはセカイカメラと実空間透視ケータイの融合が最大のニュースかな:CloseBox and OpenPod:ITmedia オルタナティブ・ブログ

このように、"TLの評価は"と不特定多数の誰かに代弁させるのが正しい方法である。私も少しこういう姿勢を見習わなくてはならない。

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追記:
今ふと思いついたのだが

だが同社はスマートフォン市場に慎重な姿勢を崩しておず、従来の携帯電話とのバランスの見極めにはまだ時間がかかるとみている。「従来の携帯電話も確実に残る。スマートフォンを使う層と携帯電話を使う層の間にいる"中間層"がどう動くか。市場の動向を見ていきたい」(高橋常務)

via: まずはニッチに慎重に 「出遅れた」auのAndroid戦略 - ITmedia News

この"何か"は、auが社内に対し

"ほら、Smartphoneなんて売れないじゃないか"

と言うための"言い訳"ではないのか?


Jim Rogers V.S. Prof. Ishii

2010-03-30 06:58

私がなぜTwitterのクライアントを立ち上げているかといえば、自分で書くより、面白い情報に出合えるからだ。

"冒険投資家であるジム・ロジャーズの名言"をつぶやくBot にMITの石井教授が返しているコメントが興味深い。

これから起きてほしい未来を考えるためには、今起きている変化からの外挿ではなく、起こしたい変化の戦略をデザインし、実行しなければいけない。 RT @JimRogersBOT: これから起ころうとしていることを知る為には、いま起こっている変化をとらえられるようにならなければいけない

via: Twitter / Hiroshi Ishii 石井裕: これから起きてほしい未来を考えるためには、今起きてい ...

世の中にある仕事の99%に関しはJim Rogersの言っていることが正しい。現在の変化をうまく読み取りそれに乗るのだ。

しかし

いい年して石井教授の言葉のほうに共感を覚える人間というのは、まあ奇跡的なニッチを発見しない限り生き残れない類なのだろう。

もう一つ引用。

@ishii_mit 曰く。これから起きてほしいと思う未来は、自分の手で創り上げる。まだ生まれて来ていないビジョンに賭けなければならない。 RT @JimRogersBOT これから世界で起こるであろう未来を理解する。滅んでゆくものに賭けてはいけない。

via: Twitter / Hiroshi Ishii 石井裕: @ishii_mit 曰く。これから起きてほしいと思 ...

他人のやっていることに難癖をつけるためにやれ

"想定ユーザは誰だ"

とか

"ビジネスモデルが定義されていない"

とかいう手法がある。今存在していない市場のビジネスモデルを定義する方法はないし、破壊的な技術に最初から想定ユーザなど存在しない。それは発見していくものだ。

といった具合にちゃんと自分の考え方を説明して、そのうえで議論せねばならんのだろうな。


将来残るのはHTMLだけ、、、なのか?

2010-03-29 08:30

というわけでいきなり引用

ネイティブ・アプリとWebアプリは、まだ当面は併存するでしょう。現在、ネイティブアプリが必要な場面はあります。ただ私の考えでは、HTML5、あるいはHTML6かもしれませんが、今後はHTMLだけが生き残っていくと思います。

via: 【インタビュー】グーグルが考えるクラウドとは - @IT

2007年のWWDCに参加するにあたり私は一つの期待を持っていた。きっと

"iPhoneアプリの開発環境がアナウンスされるに違いない"

と思っていたからだ。

あれやこれやの発表の後、one more thingがくる。

"iPhoneアプリはWeb2.0で開発するんだ!"

おいおい。このときのがっかり感は今でも覚えている。

最初に引用した言葉には確かに一片の真実がある。インストールは不要だ。これは確かだ。
しかしAppleが最初に"iPhoneアプリはWeb2.0で"(つまるところHTMLである)

といったにもかかわらず、その後爆発的に拡大したのはNativeで書かれたアプリケーション群だった。

これは両者を使ってみればすぐわかる。HTMLはとにかく待たされるのだ。アプリと同様にアイコンをタッチして起動する。ネット接続に待たされる。その中にいるときは、まあ快適だが、どこかに移動しようとするとすぐまたされる。

この"まあ快適"のところもiPhoneのネイティブアプリにはかなわない。

結果として現状では

・素早いレスポンスが必要とされるUI部分には、ネイティブアプリケーション
・膨大なデータを必要とするコンテンツ部分はサーバーにアクセス

という構成が一番快適なように思うのだがいかがなものだろうか。

確か予想としてこれが

"将来全てはHTMLに"

ということはできる。しかしそのためには、インタフェースのレスポンスをネイティブアプリと"区別がつかない"レベルにまで引き上げる必要があると思うのだ。

HTMLの6だか7だかでそうした未来が実現されるのだろうか、それともインタフェースとしてのネイティブアプリは残り続けるのだろうか?

私は少なくとも数年の間は後者に賭けるがそれが正解かどうかはわからない。


iPadなんて大きなiPhoneだ。何に使うのかな?

2010-03-26 08:18

等と言っている人はそこかしこに存在する。

こういう文章を見つけた

タブレットという新しい形のデバイスを使って、普通の人がウェブブラウジングをする・本を読む・絵を描く・音楽を演奏する・ゲームをする時代がまさに来ようとしている。

via: Life is beautiful: iPadのインパクト、私の予想8

何度か書いたことだが、iPadは"真のパーソナルコンピュータ"たりえる最初の存在だ。それが理解できない人が結構いることには驚くがまあ世の中そうしたものだろう。

家では子供が私のiPhoneを使ってあれこれ遊んでいる。彼らにiPadを買ってあげたい。大きな画面で友達と一緒にあれこれ楽しいことをしてほしい。きっとKids Paint(名前忘れた)のような子ど向けペイントプログラムが発表されるに違いない。それで自由に絵を描いてほしい。楽しい絵を。

iPadで書いた絵が、iPadを離れ空中に飛び出すさまは、、と書いて実現方法につまってしまったが楽しくないかな?そういうイメージは。


分類するのだ

2010-03-23 07:58

例によっていきなり引用

分類の難しさは、生物だけに限られたものではない。例えば海と湖と池と沼は、明確に区別できるだろうか? 山と丘は? 天気はどうだろう。晴と曇りと雨との間に、はっきりとした線引きができるだろうか。 天気雨の日は、晴に分類するのか雨に分類するのか、あるいは天気雨という新しい種を作るのか。気象庁が定める分類はあるけれど、アプリケーションによっては気象庁の分類がどうあれ、雨つぶが落ちてきたら雨に分類しないと、例えば洗濯物の管理システムなんかだと困りかねないよね。

なんでこんな事になるかというと、「種」という概念が人工的なものだからなんだよね。 自然物は、人が作った「種」とは関係なく無数のバリエーションが存在している。 でも、ヒトのかよわい頭ではその違いをすべて認めて把握することなんてできっこない。そこで、そのかよわい頭でも扱えるように、似たようなものをひとまとまりにして情報量を削減して認識している訳だ。 だから元々分類には多少の無理がある。それでも、頭の中での情報処理のコストを大幅に節約できちゃうので、普段から僕等はこの無理を通して生きている。

via: 2010年3月の小ネタ

ここで福地氏が指摘しているとおり、分類というのはあくまでも便宜的なものでしかない。"階層メニュー"の使いにくさもここからきていると思っている。階層メニューとは機能を"分類"してそれぞれのタグをメニュー項目に割り当てるものだが、"分類"が設計者とユーザで一致していないと

"探したいものがない"

ということになる。

つまるところ分類等は意味を持たないのであって、"何かこんなもの""これ違う"という適当なフィードバックからいわば動的に"分類"を生成し提示してやろう、というのがGardsとかGoromiの考え方。

今考えているのは、そうした場合に何種類の入力があれば全体像も定かならぬデータをブラウズできるのか、ということ。こうしたインタラクションの方法に名前をつけると、一つの分野として確立できるかなあ。


働いているとよく出会うメンタリティ

2010-03-19 08:30

というわけでいきなり引用である。

その意味では、AndroidのJavaアプリというのは方向性からして間違っているし、Google全体が目指している方向とも違う。AndroidのLinuxとかWebkitの部分は良いとして、Android向けのアプリをごりごり作って差別化をはかろうという作戦だけはどう考えても間違い。

 まあ、iPhoneアプリがあれだけ成功しているのを見れば、自分でも同じことがしてみたいという気持ちになることは分かるが、「今、成功しているもの」を真似するんじゃなくて、「次に起こるだろう・起こるべきこと」をちゃんと見極めて、その変化を起こす立場にならないと、この業界ではリーダーシップは取れない。

Life is beautiful: 共著「Google Chrome OS」出版のお知らせ から引用


仕事でよく出会う

"iPhoneみたいなものを作りたい"

というメンタリティには(影でこっそり)辟易している、というのは本当のところだ。

もちろん最初から勝負を投げているところならばそれでもよい。

しかし

仮にもソフト or ソフト+ハードを作っているメーカーの人間がこうした事を口走るのは理解し難い。絶望に打ちひしがれて歴史学者にでも転向する、というのならまだ理解できる。あるいは、ガラケーの路にひたすら耳目を閉じてつきすすむとか。

しかし

顎が外れるような製品をみて、ショックが去った後には

"これを吹き飛ばす製品を作ってやる"

とどうして考えないのだろうか。実に不思議だ。

そうした意味ではAndroidは

"iPhoneよりちょっとオープンで、無料です。その分Sexyさは減ってます"

製品でしかない。それを搭載して喜んでいてどうする。

友人から聞いた話だがある"先端技術の研究開発"をする会社では、2007年に

"2015年にはこうなります。なんと◯◯とiPhoneがつながるんです!"(キリッ)

と真顔で主張していたらしい。まあそうやっていられる方が確かに世の中幸せに暮らせるとは思うのだが。

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私の知る限り、ライバルと目される製品では、Palm pre, それにWindows Mobile 7の方向性はいずれもそれなりに筋が通っている。しかしなんですね。Windows Mobile7のケータイは、ボタンのWindowsマークを見るだけで"げんなり"とした気分になるのはなぜだろう。これは私がApple原理主義者だからでしょうか。


エコの気持ち悪さ

2010-03-18 07:21

昨日うちの子供が言った。ししゃもは何も残さず全部食べられるからエコなのだそうな。エコざかな、と命名していたが。

というわけで幼稚園児もエコである。昨日こんな記事を見つけた。

ペットボトルにまつわるエクスピリエンスとして

 

購入・使用・廃棄の一連の流れの中でいかにエコを感じさせるか

 

 

ということを考えつつ、ストーリーを考えていきました。

via: ischool 第4回ワークショップ#4 | 東京大学i.school

ここで挙げられているアイディアの類型的なところにうんざいるするのは私だけだろうか?

ペットボトル、エコというだけでこうしたキーワードが自動的に湧いてくるのだろう。グループワークだから仕方がないかもしれないが、もうちょっと"現実の人間社会"に根差したアイディアはないものだろうか?

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話は少しかわる。先日たまたまつけているTVでこんな話を見た。
映画監督の大林宣彦が小学生?を相手にストーリー教室をやっている。

何枚かの写真があり、そこから3-4枚選んでストーリーをつける、という設定らしい(最初から見ていないので知らない)

その写真の中には、砂浜に転がるつぶれたペットボトルのものが一枚あった。

それを使ってある女生徒がストーリーを作る。

大好きな浜辺を歩いていると、ペットボトルが落ちているのをみつけ悲しくなった。環境をまもるため、ゴミを拾って帰った。

↑であげたエコ、ペットボトルのストーリと大同小異である。大学生が小学生並みというべきか、小学生が大学生並みというべきか、あるいはエコに関するありきたりのストーリというべきか。

そこで大林監督がいくつかコメントをだす。

つぶれたペットボトルの写真を指さし

"これはゴミか?"

残念ながら番組内ではっとするようなストーリーには出会えなかった。しかし大林監督の指摘は"さすが"とうならせるようなものだった。

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と書きながら、↑で挙げられているような"プロセス"を経ては、そうしたアイディアしか生まれないのだろう、とも思う。

ペットボトルを集めてあくどく儲ける

なんてのは、ブレーンストーミングの段階ではでてきても、結局切られるだけだ。でも現実の人間とはそうしたものではないか?現実世界に生きている人間を動かしているのは何なのか?

ちなみにその後にはこんな記事が続く

検証して、もし私たちの考えた条件のもとで

イノベーションの芽が生まれたら、

ある意味意図的にイノベーションを起こせることになるのです。

それをワークショップを開催することで、

検証&みなさんに体験してもらいたいと考えています。

 

そうして仮説が真理になったとき、

その活用は無限です。

via: イノタンの近況 | 東京大学i.school

こうした"イノベーションのプロセス化"というのは、大企業が大好きなテーマだが、、、結果を見守りたいと思う。


無茶苦茶な経済理論

2010-03-17 14:34

というわけでいきなり引用

推薦人(勝間さん)の「経済」方面の理論はメチャクチャだと彼女の出身大学院の先生方から直接具体的に多々ご教示(改めて)たまわりました。

via: Togetter - まとめ「勝間和代の経済方面の理論はメチャクチャなのか」

なんというか。。。

経済理論について、自分と異なるスタンスのものを

"めちゃくちゃ"

だの

"デタラメ"

だの罵倒する言葉は実によく見かける。しかしその内容を読んでいくと、私のような門外漢には

"はて、どちらが正しいのか"

と思えることが多い。

これがたとえば科学理論のように白黒つけるルールがはっきりしているものであれば外野から見ていてもどちらがトンデモかわかりやすいのだが。。

いや、もう95%の経済理論はデタラメであり、かつ全ての経済理論は自分と異なるものをデタラメとみなしている、ということでいいのではなかろうか。


映画評:ハートロッカー

2010-03-12 13:22

祝!アカデミー賞たくさん受賞。ということで本家より転載

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アカデミー作品賞をアバターと争っていると聞いて観に行った。

見終わっての感想は

"冗談だろ"

イラク駐留米軍の爆発物処理班。最初のシーケンスで隊長というかリーダーが爆死する。この場面ですでに私は映画から脱落。やっていることはよくわかるが、スクリーンから全然緊張感が伝わってこないのだ。リアルに真面目にやっているとは思うのだけど。

いや、作品賞とか監督賞とかたくさん候補になっているらしいからそのうち面白くなるのだ、と自分に言い聞かせる。ブラボー中隊が任務完了までにあと何日と映し出される。ふーん。となりの人間が携帯の画面をのぞき込むが別に批難する気にもなれない。

見ているうち

"早くここからだしてくれ"

という気にはぜんぜんなれなかった。観客を戦場につれていく、という点ではアカデミー賞とは全く無縁だったジャーヘッドに遥かに劣る。

なぜ私がついていけなかったのかの理由を言語化することはできないが、実際そうだからしょうがない。理由のひとつは"肝心なところをセリフでだらだら説明しよう"であるかもしれない。最後の任務が終了した直後、その後などセリフでぐだぐだ説明する。他にも

"わかりやすい死亡フラグを立てまくる軍医"

とか。神経質でわめきまわり同情し難い隊員とか。

かくして

"この映画のどこがアカデミー会員に受けたのか"

が最大の謎として残る。そう思ったのは私だけではないようで、エンドクレジットが流れ出した途端多くの観客が席をたったことを付記しておく。

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実話のもつ緊迫感、という点では、ジャーヘッドだけではなくUnited 93に比べるべくもない。しかし何がそれらとの違いか、ということになると私にはわからない。

人がくだす評価というのはしょせんこのようなものだ。何が良くて何が悪いかは"審査員"が決めることだし、こうした問題に関していえば客観的な基準すらない。

というわけでことしも"ごんざれふ大賞"を、と考えるが、、、まじめにやろうかな。


リビングにある大型ディスプレイは何をすべきなのか

2010-03-11 08:24

家庭のリビングに大型ディスプレイがおいてある。それは一体何をするべきなのか。

過去においてこの設問に対する答えは簡単だった。どこかから配信されてくる美しい映像を映し出す。できるだけ大型の画面で、できるだけ安価に。

しかし不幸にしてその方向に進んでいけば幸せが得られる時代は終を告げた。どんな機器にも、定められた方向に線を延長していけば-つまり自分がどちらに向かっているか気にせずにひたすら努力すれば-報われる、という幸せな時期が存在する。そしてそれがいつか終を告げるのも古今東西一貫した真実だ。

さて、表題の設問に戻る。"リビングにある大型ディスプレイは何をすべきかのか"

ひとつの答え-あるいは提案と呼ぶべきか-がこの文章である。

ちなみに、私が数年前から暖めている商品のアイデアがあるので、ここで披露しよう。題して「おかえりなさいテレビ」。ターゲットは、毎日のように9時とか10時にならないと家に帰らない・帰れない会社員。わざわざ番組予約をして見るほどテレビは好きではないが、まわりの話題についていけるぐらいは、ドラマとかニュースとかスポーツ番組は見ておきたい、と感じている人たち。

 操作はいたって簡単。家に帰ったら、スイッチをオンにするだけ。いきなりその日のテレビ番組のダイジェストが始まる。流れている映像に興味がなければ「スキップ」ボタンを押す、興味があれば「しばらく見る」ボタンを押す。それだけだ。最初はあまり賢くないが、使っているうちにだんだんと「この人は野球が好きだな」とか、「キムタクのファンなんだな」と理解して、ダイジェストの内容が充実してくる。その人が平均して何時ぐらいにテレビを消すのか(=寝るのか)も認識して、家に帰った時間から計算して適当な長さに編集してくれる。

Life is beautiful から引用

ターゲットを設定し、"つかれたオヤジ"に要求する操作を

電源On

だけに絞ることは正しい。また簡単なフィードバックを得るという方向性も良いだろう。


しかし私はこの提案に賛成しかねる。これは私が常々批判している

"タコツボ製造機"

になると考えるからだ。
野球ファンだと判断したプログラムはひたすら野球の中継、ニュースだけを編集してつかれたオヤジに送り続ける。しかしある日オヤジは気がつく。何も画面に映らなくなったのだ。どうしたことか、と彼は仕事中に2chを覗く。

そして初めて知るのだ。世間がプロ野球というものに対する関心を失っていたことを。(参考情報)

"売れる""売れない"で言えば、この構想に基づく受像機は"売れる"のかもしれない。しかし私の考えではそれは人間に幸せをもたらさない。

"常日頃見ているものと似たものをみたい"

などというのは人間の欲求のほんの一部でしかない。誰かがつけっぱなしにしたTVをふと見て全く新しい分野に目覚めることはないだろうか?

人間は

"自分が過去に見たのと類似のものをみたい"

という欲求と

"少し新しい物を知りたい"

という欲求の間で揺れ動いているものだと考える。実際Goromi-Tubeを使っていて最近多用するのは

"あなたへのおすすめ"

機能だ。(ちなみにこれはGoogle Accountを利用してログインしないと使えない)自分が"お気に入り"にいれた動画を見返すよりもその機能を使うことが遥かに多い。さらには"Other"機能を使うことも増えてきた。自分が今までに見たものとは全く違うもの、とにかく何か別のものをみせろ、という欲求は必ず存在しているし、"リビングに置かれた大型ディスプレイ"に必要な機能だと考えるのだ。

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とかなんとか文句ばかり書いていると

批判だけなら能なしサラリーマンでもできる

といわれてしまう。確かにそれは事実なのだが、"じゃあお前は何を提案するのだ"という問に対して(誰も聞かないと思うけど)二つ提案をしておく。

ひとつはGoromi-tube。基本的にこれは流しっぱなしである。アクセスすれば何かが始まり、延々動画が再生される。しかし"何か別の"とか"おすすめ"とかを選択できるようになっている。PC上のアプリなのでマウス操作が必要だが、家電に搭載されれば、少数キーのリモコンで容易に操作できるはずだ。(本当はこれを優雅に操作するためのリモコンについてもアイディアがあるのだが、それはまた別の機会に)

でもねえ、これ誰も使ってくれないんだよねえ。。というわけでアイディア倒れは明白。いいんだ、自分は楽しく使ってるから(と石を蹴る)

もうひとつは、いつぞやかのブロガーイベントで提案した

""

としての大型ディスプレイである。

ソーシャルメディアがここまで流行ったことは何を意味しているか。今やTVを見ていた時間はソーシャルメディアにアクセする時間に吸い取られてしまっているのだ。

それは

"自分が知っている人間が何を言っているか行っているか"

に人間はとても興味を持つ、ということではなかろうか。

であればだよ

TV局の下請け会社が心血をそそいで作った番組(-あるいはそのダイジェスト-)より、自分の子どもが昼間に"大型ディスプレイ"の前で何をしていたか、つかれたオヤジにとってはそちらのほうが心にしみるのではなかろうか。

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この文章で私は"TV"ではなく"リビングに置かれた大型ディスプレイ"という言葉を使っている。もうそう考えるべき時期ではないかと思うのだがいかがだろうか。


みんなで知恵を出し合おう

2010-03-10 08:13

というわけでいきなり引用

確かに「ユーザー・エクスペリエンス(おもてなし)」とか「ライフスタイルへのインパクト」重視のもの作りは、定量化ができなし、大失敗の可能性もあるので、「出る杭は打たれる」型の日本の会社では難しいのかも知れないが、そろそろ意識を切り替えないと手遅れになる。「ユーザーにどんな体験をしてほしいか」をまず第一に考え、カタログスペックにこだわらずに魂のこもった商品作りをする。

via: Life is beautiful: 私からの提案:おかえりなさいテレビ

中島氏の提案に対して、コメント欄でいくつか意見が寄せられている。
たとえばこんなものがある。

疲れて帰った時にTV見たいとは思いませんし、TVが勝手な基準で録画したのを見させられるくらいなら、全チャンネル丸撮りしたのをタイトルサーチした方がいいです。
番組を見る主導権は私にありますから。

via: Life is beautiful: 私からの提案:おかえりなさいテレビ

しかりこれも正しい意見だ。私が中島氏の提案にたいしてどのような意見を持ち、どのような提案をするかは近日中にここで述べるが、本日言いたいことはそのことではない。

こうした"魂のこもった製品"は合議制では生まれない、ということなのだ。いくつもの"正しい意見"の最小公倍数だか最大公約数をとっていった結果が日本の家電業界ではないのか。つまるところは

"結局おもしろくない製品"

のオンパレードである。

今までと違っているということは失敗の可能性も高い、ということである。しかしそれを"社内の合意をとるためにまとめる"のではなく、反社会的ではない最小限のエッジを丸めた形でそのまま世の中に出す。

Googleのサービスもいつも議論のネタになるが、結局検索もGoogle mapもGmailも大変普及している。AppleのiPhoneが出た時に

"頭のいい人たち"

がどのような批判をしていたかはこのブログでも何度も取り上げた。しかし結果はどうだろうか?

となるとたとえば

"日本でもハード込みで新しいサービスを手掛けるベンチャーがガンガンでてきてほしい"

ということになるのかもしれないが、CEREVoのあり様を見ていると、、、と考えてはいかんのだな。


さあ、みんなでクラウドテレビを作ろう

2010-03-08 07:32

というわけで多くの人の共感を呼んでいるこの記事

技術部長:プラットフォームですか

副社長:まだ分からんのか、Androidだよ。うちのテレビにAndroidを載せて、我が社のテレビを「クラウド化」するんだ。「クラウド・テレビ」の時代のリーダーシップを取るんだ。

技術部長:「クラウド・テレビ」ですか。それとAndroidとどう関連するんですか?

via: Life is beautiful: とある家電メーカーでの会話:クラウドテレビ編

冗談抜きに

"おかしい。うちの会社の最高機密が漏れている"

と思った人は多かろう。この記事を読んでちょっとだけ苦笑し、そのあとこの記事と同じことを始められる人は日本の大企業で出世する資格を持っている。

ノモンハンの後にジューコフが言った言葉は現在も当てはまると多くの人が指摘するところではあるが、変化は一向に起きない。ニュースを見ていても最近日本の家電メーカーの影はすっかり薄くなった。90年代の絶頂期を知っている身としてはいささかさびしい思いもするが、まあ人ごとなので気にしない。その頃はソニーがAppleを買収するかということが本気で論じられていたのだ。

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さて、話かわって

質問はずばり「薄型テレビ・デジカメ・DVDレコーダに続く、次の三種の神器は何?」である。

via: Life is beautiful: 意見・アイデア募集:次の「三種の神器」は何?

に私はこう答えた

・個人用携帯情報機器(これは現在iPhoneがその役割を担っている)
・家庭用据え付け情報機器(これには誰も成功していない)
・オヤジ用一人になれる場所製造機(誰か作って)

その変化が望ましいものかどうかは別として、マスメディアに費やされる時間は減少し、ソーシャルネットに費やされる時間が増加していることは間違いないだろう。それがどこかで止まるのかどちらからが消えてしまうのかは今のところわからない。

1番目と2番目はそうしたソーシャルメディアの端末であるが、性質が異なっている。個人で持ち運ぶものと、家庭に(つまりかつてはTVがあった位置に)座るものは違うのだ。そして2番目の情報機器の正解はいまだ誰も知らない。目指しているメーカはたくさんあるが、誰も成功していないのだ。家族がみんなで楽しめるもの。それはなんでしょうかね。

3番目は私が切に望んでいるもの。何度か指摘したことだが、数10年前はオフィスを離れれば仕事から離れることができた。今はどこでもメールやら電話がチェックできてしまう。私のような怠け者には耐えがたい。

とはいえ"皆で50年代に戻ろう"という呼びかけは無意味だ。さて、情報のアクセスを可能にしながらオヤジが閉じこもるにはどういう方法があるでしょうか。。という問題意識だけは持っているのだが。


映画評:しあわせの隠れ場所

2010-03-05 08:24

つかれて人生がいやになった時は本家から転載

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私にとって地雷源と化しているサンドラ某だが、アカデミー賞主演女優賞の候補になったと聞いたので観に行った。

見終わっての感想は

"冗談だろ"

行き場所がなくさまよっていた高校生を、ある裕福な夫妻が迎え入れる。彼の勉強の面倒をみてやり、ようやくフットボールに入部が認めら れる。大活躍して大学からスカウトが山ほどくる。しかしDivision 1Aに入部するためにはまだ点数が足りない。必死に勉強してようやく合格したと思えば、、

という実話に基づくお話なのだそうな。コメディではないのだが、やっていることはいつものサンドラ某のラブコメと一緒。全く型通り。で あるからして、成功の途中でなにか"困難"が来るはずだと思う。あれこれ想像しながら身構えているとそれは、、どうでもいいものだった。そこからの"回復"もあっさりと。

途中本物のCollege Footballのコーチが山ほど登場し、手馴れた"高校生へのスカウト"を演じる。流石に"演技慣れ"している人たちだが、こういう"素人出演の内輪受け"を延々観させられても観客-特に日本 の観客-は退屈するだけだ。

また何が気持ち悪いといって、裕福な夫妻が完璧に"良い人"なのだな。それだけではたらず(これもサンドラ某にはいつものことだが)セ リフで"私は良い人なのだ"と宣言しなくては気が済まない。

"私が彼の人生を変えてるんじゃないの。彼が私の人生を変えてるの"

というセリフ自体はいいも のだと思うが、映画の中では完全に浮いている。世の中には自分のベッドを持ったことがない人がいることを知り、自分が行ったことのない治安の悪いエリアに行くことがそんなにすごいことなのか。

ディ パーテッドが作品賞をとる世の中であるからして、この映画のサンドラ某が主演女優賞をとっても驚かない。しかしその背後に何があるかは知りたい気がする。とか書きながらノミネート一覧を見てみれば、、何?作品賞にもノミネート?

とはいえ

米国の大学でFootballをするということがどんなことが垣間見られるのは面白い。成績が一定以上じゃないと入部すらできない。("協力"をほのめかす場面もあるが)これは見習ってもいい部分ではないかと思うのだが。

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サンドラ某の演技が、、よかったんですかねえ。私にはわかりませんでしたが。

作品として、、おもしろいんですかねえこれが。作品賞ノミネートも冗談としか思えない。いやだって、グラン・トリノが(去年だけど)作品賞にノミネートされてないんだよ?

私にとってはNotre DameのHead Coachである、ルー・ホルツがこんなところにいたのか、というのが唯一の驚きか。

サンドラ某の日本公開映画は、軒並み560円以下(私にとっては)なのだが、こうして映画が作り続けられること自体、彼女が成功していることを意味しているのだろう。


学校の勉強は役に立たない?

2010-03-04 07:48

昨日はここで読むことができた記事である。今はログインが必要なのでうろ覚えでかく。

Q:今から卒業までに何を勉強すればいいでしょうか
A:学校で学んだことは、実践の現場では役に立ちません。したがって思考方法とか発想法とか、ほにゃらかを学んでください。

よく聞く言葉だ。

さて、同じくよく聞く言葉として

"社会にでると、学生のころもっと勉強しておけばよかったと思う"

というものがある。私に限って言えば、社会にでてから勉強したいことが増えた。思わぬ理由で再び学生になったわけだが、その時履修したosi 7layersに関する講義は今でも役にたっている。

この二つの"よく聞く言葉"は矛盾している。

これにはいくつかの理由があるのだろう。

・そもそも"仕事"というのは実に多岐にわたっている。きわめてせまい専門知識を要求される分野もきっとあるのだろう。そうした場面で学校の勉強が役に立たない、というのは理解できる。

・逆に少なくとも私が経験してきたいくつかの仕事では何が必要になるかは前もって全く予想できないことが多かった。学校をでて15年もしてエントロピーとエンタルピーとかいう言葉を聞くなど誰が予想できただろうか?

完全に頭から抜けてしまった項目も多い。しかし一度社会人になった後意識的に履修した科目はいずれも-少なくとも基礎としては-役にたっている。債権を購入するとはどういうことか。RDBとはどんなものか。(そういえば当時はo-r mapperなんて言葉はなかったな)統計の考え方とは。Micro Economicsとはどんな学問なのか

というわけで

もし私が同じ問いをなげかけられたとしたらこう答えると思う。

A:自分に全く縁がなかったけど、名前だけは知っている分野についてどんなことが行われているか、どのようなものの考え方をしているかわかる程度に学んではいかがでしょう。そうした知識はいろいろな形で役に立ちます。

ちなみにMicro Economicsが、operations Researchもはだしで逃げ出すほど難しい数学を使っているのを知った時には軽いカルチャーショックを受けた。またそれが難しいだけで何の役にも立たないことも実に興味深かった。


革新的着想はどこから生まれるのか

2010-03-02 08:18

いきなり引用から始める

革新的な着想を生み出すのは、エンジニアであろうとマーケティング担当者であろうと、デザイナであろうと構わない。ただ、その人が深い洞察力をもって問題を理解し、新たな着想に至ることができるかどうかが問題である。そのための素材として、ユーザー調査にもとづく問題点の把握は有用であると考える。

via: ノーマンの間違い - 創造的ユーザビリティと標準的ユーザビリティ/HCD-Net通信 #19 | Web担当者Forum

私はノーマンの意見により共感を覚える。"ユーザ調査による問題点の把握"なんかいくらしたって革新的な発想には結びつかない。それはほとどの場合"より速く、快適に乗れる馬車"を生み出すだけなのだ。

黒須氏の意見に説得力がないのは、実例が伴っていないからではないかと思う。逆にノーマンの意見をサポートする実例は歴史をみれば事欠かない。

・ライト兄弟も、リリエンタールもユーザ調査なんかしなかった。というかあの時点でどれだけユーザ調査やったところで"空を飛ぶ"ニーズなんか生まれるはずはなかった

・パーソナルコンピュータの出現もユーザのニーズに基づくものではない。

・何度か書いた昔話だが、Googleが生まれる直前"検索エンジンの競争は終わった。これからはポータルとしてどれだけ使いやすいかが重要だ"という意見が支配的だった。あの時点で"よりよい検索エンジン"の必要性にたどりついていた人がどれだけいたのか

その発想を生み出すのが誰でも構わない、というのには半分だけ同意するのだが、、まあそれは別の話。

というわけで黒須氏も自分の主張をサポートする実例を挙げてはいかがなものかなあ、と思った次第である。