日付:1998/5/24
その日-1998年5月23日土曜日-私は明らかに睡眠不足だった。おまけに不思議なほど緊張していた。
睡眠不足の理由はいくつかある。一つはお歌のお稽古に熱意をいれすぎたことがあげられる。
このころ我々の同期社員であるところのCOWの2次会で、我々のバンドでどんちゃかやろう、という案が持ち上がっていた。元々私はこのバンドでボーカルをしていた。しかし前に勤めていた会社の予定表によれば、私は問答無用でデトロイトに今世紀末まで幽閉されることになっていた。そしてデトロイトからはどうがんばってもバンドの練習に参加できないのである。
私が「帰らぬ人となった」と思ったバンドのメンバーは代わりのボーカリストを捜した。そして私よりも優秀なボーカリストであるところのHOKを見つけたのである。
そこへ「死んだ」と思った私がひょっこり帰ってきた。そして今は私がなし得る唯一のパート-バックコーラスとしてバンドに参加しているのである。ただし今度のCOWの2次会では一曲だけ昔の曲をボーカルとして歌うことになっていた。
1986年の年末にこのバンドは人前でどんちゃかやっている。観客は名張乗馬クラブのクリスマスパーティーと称する忘年会の出席者。5歳の子供から60歳以上の方までの男女バラエティに富んだ面々であった。その彼らにもっとも受けた(と私が思っている)曲を歌うことになっていたのである。
その時の録音した音を聞きながら、私はひたすら反省にふけっていた。どこがおかしかったか、どこで観客の受けがよかったか(理由はわからないが、中学生の女の子のすごい笑い声があがる場所があるのである)、、、などとひたすら考えていたら、いつの間にかあっさり就寝時間を過ぎてしまったのである。
おっとこれはいけない。明日は試験ではないか、と思って布団に入ったのはいいが、何故か今度は隣の部屋が騒々しいことに気がついた。声の調子から察するに友達が来ていて夜遅くまで(少なくとも私の尺度では)話し込んでいる様子である。その声が気になって寝付けなかった、、と言いたいところだが、彼らはそんなに声高にしゃべっていたわけではない。つまるところ不眠のもっとも大きな原因は、「まんが喫茶」に行ってコーヒーを飲んでしまったことかもしれない。
まんが喫茶に行って漫画を読んでいると大抵の場合自己嫌悪に陥る。私が読む漫画の主人公は大抵自分の力をいっぱいにふりしぼってがんばっている。その漫画をにこにこしながら読んでいる間はいいのだが、ふと我に帰ると「俺は何をしているんだ」という深刻な疑問に思い当たる。なんだかんだと理屈をこねたところで、私は日々何もほとんど意味のあることをせずにくらしているのだ。
こんなことをしていてはいけない。だいたい私は職探しに本当に身をいれていないんのではないだろうか。あの会社でいいじゃないか。いや、それはできない。もうっちょっと探してみなくては、じゃあいつまで探すんだ?
こんなことをカフェインを摂取した後に考えていれば眠れないのは当たり前である。結局自分が何時まで起きていたのか定かではないが。
翌朝は5時に目が覚めてしまった。この日は早めに実家に行ってそれから試験に向かうことにしていた。とはいってもこんなに早く起きる必要はない。もう一度寝ようとしたが、眠れない。隣の部屋は(あたりまえだが)静かになってるし、まさかカフェインが残っているわけもない。ねぼけた頭でちょっと考えた後に、私は自分ががらにもなく緊張していることに気がついた。
このいいかげんな生活をおくりはじめてほぼ半年になる。その間ほとんど時間という物に拘束されずに生きてきた。そしてたまに面接に行くと「異様に疲れる」ことを認めざるを得なくなっていた。要するに怠惰な生活に慣れすぎてしまっていたのである。
今日の試験はたったの2時間だ。しかし面倒でしょうがない。おまけにだんだんと「この半年ほとんど英語を聞いていない。大丈夫だろうか」と心配になりだしていたのである。胸に手を当てればやましいところのたくさんあるところの私としては、少なくとも英語の試験くらいはそれなりの点数をとってみたいところである。しかし考えてみれば英語の試験と名がつくものは過去数年(というか留学前の最後のTOEFL以来)受けていないのである。おまけにここ数ヶ月聞いた英語と言えば、録画した米国のTV番組ばかりで、とても「英語の試験」の訓練にはなりそうにもないものばかりだったから。
などとしばらく布団の上で考えていたが、とりあえず実家に向かうことにした。睡眠不足も準備不足もここまでくればなんともならないのである。頭をふりながら電車で実家に向かった。
実家に戻って、両親と一緒に朝食を食べた。母は鎌倉にいる祖母の元から戻ったばかりであり、私の従姉妹の娘の「あずちゃん」をあやした話を大変うれしそうにしていた。母はとても子供が好きなのである。(母の言葉によれば「小さければ小さいほど可愛い」のだそうだが)
ちょっと話題がとぎれたときに私はこう言った。
「今日は英語の試験だよ。例の宇宙飛行士の奴だ」
すると間髪いれず母はこう言い出した。
「まあ。あなたきっと受かるわ。私宇宙飛行士の母になるのね。インタビューに来てねって言っておいてね。お化粧して待ってるわ」
突然のリアクションに私はしばらく言葉を失っていたが、母が上記のセリフを何度も繰り返し、止めそうにないので、こう言った。
「お母様。私を完璧に馬鹿にしてますね」
母はこれまた間髪いれずに答えた。
「そうよ」
うちの母は姉とともに、私をからかうのが大好きなのである。確かにこの宇宙飛行士云々の話は母にとっては格好のからかいのねただったかもしれない。
あまりに母がうれしそうなので、私は反撃する義務を感じてこう言った。
「お母様。私いまホームページってのを作成して、この顛末を書いてるんですよ。そういうわけのわからないことをすると、私がそれをホームページに掲載して全国の人が読むことになるんですよ」
母はその言葉を鼻で笑って相手にしなかった。
加えて「あんた何人応募してるか知ってる?」と聞いてきた。知らないよ、と答えるとゴソゴソと新聞の切り抜きを引っぱり出してきて私に投げた。「あんた何にも知らないのね」といいながら。
母はなんでこんな切り抜きをとっておいたのだろう?と普通なら思うところだが、睡眠不足の頭はそこまで回らない。記事を読んでみると概略以下の通りである。
「今回の応募者は小学校5年生から55歳までの894名となった。これは過去最高の倍率となる。内訳は会社員、XXX名、学生XXX名、研究者XXX名、その他XX名。肉体的条件から40歳くらいまでとなるが、40歳以上の応募者も55名にのぼった。云々」
なんということだ。4月23日に投函した私の願書がどんなに早くついても4月24日着。そこでの受験番号が220番だったがそれからDead Lineの30日までの6日間になんと670名以上の願書が到着したことになる。これで競争倍率はほぼ450倍となった。
それから両親に、如何に願書作成が大変であるか、私が努めていたら絶対願書をださなかったという話をした。そして「努めながらあの願書が作成できるのは、よっぽどまじめかよっぽど頭がおかしいかどちらかだ」と言った。
さてこの朝実家に帰ったのには理由があった。大学へ請求していた学位証明書が届いていないかと思い(ほとんど期待していなかったが)チェックしようと思ったのである。私の計算から行けば間に合わないはずであったが、なんと前日の金曜日に到着していた。サインした手紙を送っただけでなんの文句も無しに成績証明書を3部日本まで送ってくれたのである。金があるというか、しっかりしているというか。。とにかくこれで私は「書類不備」でさようなら、となることを免れた。しかし今から考えてみれば、「いやー書類が間に合わなかったんだよ」と言った方が、「ちゃんと願書はだしたんだけどね。。。」よりは聞こえが良いかもしれない。
貧乏ダイエットを強いられている私にとって、実家でロハで食べることのできる食事は何よりもありがたい。自分が最近親孝行と名が付くことは全然していないことは棚に上げて、昼飯までごちそうになって家をでた。母親の「がんばってねー」という茶化し半分の声を背中に受けながら。
会場に向かう地下鉄の中でいろいろな事を考えた。全部で894名とすると全国6会場でわかれるとして、一会場平均150名程度、2回試験があるから今回は70名くらいか。。だいたいあんまり大きな会場だと後ろの方が聞こえなかったりするかもしれないからフェアじゃないよな。きっと会場を分けてやるに違いない。
などと考えながらまだがちがちに緊張していることに気がついた。いくつになってもどんな科目であっても試験というのは苦手な物だ。
12時から受付と言うことであったが、ビルについたのはおよそ11時半であった。私はだいたい気が小さいので目標の時間よりも大幅に早く目的地についてしまう。しかしその日はとても気持ちのいい日であり、ビルの目の前には公園まであるのだ。とりあえず場所を確認した私は公園に行って本でも読もうと思った。時間がたてば少しは緊張もほぐれるだろう。
さっそくベンチに腰を下ろして、まずは受験票をちゃんと持ってきているかの確認である。試験と言えばこの受験票ほど気になる物はない。仮にちゃんと持ってきていることを目視で確認したとしてもどこかで落とすかもしれないではないか。この日はアパートを出てから(もちろんアパートを出る前に3度くらい確認したが)8回は確認したと思う。
ぼーっとしながら先ほどのビルに入っていく人達を見ていた。この日は土曜日なのでビルに出入りする人の数は多くない。しかしそう考えていると、全ての人が受験者のような気がしてくる。
不意に隣に、これまたちょっと所在なさそうにしている同じ年頃の男性が座っていることに気がついた。彼はいかにもまじめなサラリーマンがもっているような鞄を持っている。ひょっとしたらこいつも受験者ではないか?また妙な強迫観念にとらわれた私は彼のほうをちらちらと眺めていた。彼のほうは当然だが全く関与しない、といった風で前を向いていたが。
考えてみれば誰が受験しようが、今回何人受験しようが関係ないのだがなんとなく気にしてしまう。ということはずいぶんNervousになっているということだ。
何度と無く時間を確認して、12時を過ぎたところで会場に向かった。
指定された7階についてきょろきょろしていたら「英語試験会場」という張り紙が目に入った。→にそって進んで行くと、廊下の端にふたりばかり腰を下ろしている。
女性のほうに「はい」といって受験票を出すと、うけつけをしてくれた。男性のほうに「ほれほれ」といって今朝受け取ったばかりの大学院の卒業証明を渡す。(正直言ってこれを卒業証明と認めてくれるかどうか、若干不安だったのだが、ちゃんと受け取ってくれた)ドアを通って部屋に入ってみると、ずいぶん大きな部屋である。
自分の受験番号を探してみて泡をくった。なんと一番後ろの一番隅の席である。多分Listeningの試験に使われるであろうテープレコーダーははるかかなたの台の上にちょこんと置いてある。おまけにすぐ脇にある換気口から吹き出る空気の音はやけに耳についた。そして私はまたまたNervousになり始めた。こんなんで聞き取れるのだろうか?
受付時間がスタートしてからあまり時間をおかず来たはずなのだが、部屋の中には既に数人来ていた。知り合いがいないかとじろじろ見て見たが、誰もいないようである。
さて時間表によれば、試験の説明が1時10分から、実際の試験が1時半〜3時半となっている。まだ12時10分だから試験の説明が始まる時まで考えても1時間あることになる。とはいっても受付の時にお姉さんに「出入りするときはこの受験標を必ず提示してください」(とかなんとか)言われたと思っていたので部屋を出入りするのが面倒だった。おまけに下手にジュースなんか飲みに行って試験途中でおしっこに行きたくなるのもいやである。しょうがないから席に座って本など読んでいた。まもなく隣に誰か来たが、別に話しかける気もしない。
時間はまだ早いというのに続々受験者が入ってくる。時々本から目を離して教室の様子を観察してみる。今回この部屋にいるのはおよそ60名程度らしい。受験番号は29番から852番だ。。。何?29番?
今回の英語の試験は2回目なのである。1回目は4月18日に行われている。いったい一回目の英語の試験を受けた人間は何人いたんだろう?これはあとで聞いたことだが4月の頭の時点では70名程度しか応募者がなく、NASDAのホームページに「みなさん。躊躇せず応募しましょう」という毛利氏のメッセージが載っていたそうで。期限間際にならないと腰をあげないのは私だけではないようだ。
さて目の前の本-アドルフ・ヒトラーという本である-に熱中していると後ろから誰かに話しかけられた。振り返って見れば、元働いていた職場での友達のNX号である。
「おー。」と二人で感動したあげく、いろいろ挨拶をかわした。彼が言うには彼の同僚も何人か来るはずだという。私が「よく忙しい中あの願書が書けたな」と言ったら「いや。大変でしたよ。何度も書き直して」と彼は答えた。うーん。なんということだ、私は願書を出せるのはきっとちょっと変人が多いに違いないとタカをくくっていたのだが、彼のようにまともでかつ熱意を持って書いてくる人間もいるじゃないか。
それからしばらくの間に私は数人の知り合いと顔を合わせることになった。全て最初にあった男と同じ会社で私の知り合いの面々である。彼らと時ならぬ挨拶を交わしていたが、ふと気がつけば周りの雰囲気はとても固いのである。
周りの人間を密かに観察してみる。彼らはほとんど男性であり-一人だけ女性がいた。一瞬私が一緒に働いた相手かと思ったが眼鏡をかけたら違うとわかった-年の頃はバラエティに富んでいるが、どちらかといえば20台のほうが多いような気がする。中には学生か社会人か区別の付かないやつも結構いる。当然の事ながら茶パツなんてのは一人もいない。まじめな人達はちゃんとネクタイを締めてきている。私も一瞬そうしようかと考えたのだが「いいや。どうせ無職だし」というわけのわからない理由で普通の格好で来ていた。そして皆まだ時間が山ほどあるのに、黙って座っている。どことなくみんなに似た雰囲気があるのは、理科系技術系の同じ年頃という共通のバックグラウンドのせいだろうか。
さて私の左前に座っているのは、これまた元同僚の膝割り男である。私はまわりがしーんとしている中、彼とくだらない話をしていた。あら。子供うまれたの、それはおめでとう、とか誰それは元気?とかまだ野球のチームやってんの?とかである。だいたい大の大人が60人も部屋にいて黙って30分も座ってるなんていう光景は私には耐えられない。試験の説明が始まる前であれば多少会話をしていてもあまり邪魔にはなるまい。しかしこういう事をしているから「つりズボンをしてへらへらしたのが来たけど、あいつは一体なんなんだ」と言われるのかもしれない。
ふと誰かはいってきたな。と思ってみればもともと私にメールを送って「女房に勝手に願書をとりよせられた」と言ってきた男である。「なんだ。結局書いたのか?」とこちらが聞けば相手は「書かされた」と答えた。相手も「お前も書いたのか」と聞いたので「暇だから」と答えた。
彼もきょろきょろしていたが、結局他に知り合いはいないようである。おまけにお互いが知っている顔、というのは我々の一団だけのようである。私が努めていた航空宇宙関係の事業所は3000人から従業員がいるのだからもっとたくさん来ていて、お互いが顔見知りであってもおかしくないのに。
さていつしか時間は過ぎ1時になった。前に男性が立ち「1時10分から試験の説明を開始します。それからは基本的に入退室はできませんので、トイレなどは早めにすませてください」と言った。私はさっそくおトイレに向かった。こういう時一番後ろの席は気が楽である。前のほうの席の人は多分様子をうかがった後にトイレに来るだろう。
約束の1時10分になり説明が始まった。顔の照合とか名前の記入とか淡々と手順は進んで行くが、こちらは半分上の空である。あいかわらず緊張しているのである。とは言っても手順を聞き落とせばあまりろくでない事が起こるのも明白だ。ひれひれしながら、一生懸命集中しようとしていた。
今回のテストは多分マークシートが主体だろうと思っていたら、解答用紙と「問題説明」を見るとそうでもないようだ。結構文章を書くように作られた欄がたくさんある。ふーん、と思っていると試験開始の1時半になった。その直前に女性が空調を切ってくれた。ありがたい心遣いである。
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