題名:府中へ

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願書作成

健康診断その1+願書提出

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英語の試験-開始まで

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Tuesday Afternoon

筑波へ

第一選抜-健康診断

第一次選抜-一般教養

第一次選抜-二日目

夏の日々

2次選抜について

日付:1998/6/29


筑波へ

さて、私が視力の低下に気づいてがびーんとなっていようがいまいが周りの状況は刻々と変化していた。

一次選考の通知から選考までの間に、4社と面接することとなった。そのうち一社は一次選考の二日前である。今の私にとって筑波までの往復費用は見過ごすことのできない出費である。私はまたもや姉の家に泊まることとした。

この際問題がひとつあった。姉のところの一番下の男の子であるところ太一に、私はプラモデル作成の依頼を受けていたのである。彼はとてもそのプラモデルができあがるのを楽しみにしているようだった。さて私の方はとてもごきげんである。プラモデルなんて作るのは何年ぶりだろう?私は彼の依頼以上に凝って彼に依頼された戦車を作り上げたのである。

しかしそれを輸送する段になってはたと困った。これをどうやったら壊さずに千葉まで持っていけるだろう。しかしこれをもっていかなければ、太一の「ごろぴー。プラモデルはどこ?」という視線をあびることになる。彼は幼稚園児なのだが、大変ものわかりがよろしい。逆に「もってきてくれなきゃやだー」とわめかれればこちらも無視しやすいのだが、彼が「そうか。持ってきてないのか」としょんぼり下を向いたところを想像しただけで胸が痛む。

ちょっとまて、そんなことを考えている場合ではない。太一くんの問題よりも遙かに大きい問題を私は抱えてしまっているのである。視力が0.1ないとおそらく自動的に決勝トーナメントじゃない、2次選抜には残れず、日本のW杯チームと同じ運命をたどるのである。

それから私は視力改善の鬼になった。

まずは日頃の生活を改善することにした。コンピュータに向かいすぎていたので(このホームページを作っているからだ)この時間を極端に制限することにした。おまけにコンピュータに向かった後は、必ず遠い遠い景色を眺めることとした。これは会社でも耳にたこができて、不感症になるくらい言われてきたが実践できなかったことである。しかし自分の利益があぶなくなると、人間なんでもやるようになるのである。

次にやったことはインターネットに浮遊している情報をあさり、視力改善の道を探ることである。「視力改善」というキーワードで検索をかけると、山のようなページが見つかる。そこからもっともらしい情報をよりわけていくわけである。

まず一番最初に落ちるのが「奇跡の効果を持つ、画期的な医療器具(医療器具承認番号XXXX号)」というやつである。

こういう「画期的な新製品」はそれがちゃんとしたルートで紹介され、かつ世の中に広く普及することがなければ100%嘘だと思っても間違いない。実際そんなに画期的な効果があるのならば、とっくの昔に普及しているはずなのだ。従ってこの器具の信頼性は漫画雑誌の裏表紙にのっている「○○僧が念を込めた奇跡の米粒」や「あなたにぴったりの彼女をコンピュータが紹介」とあまり代わりはない。

しかしながら本当の事を言えば、このとき追いつめられた私は、こうしたあやしげな医療器具の広告に一応目を通してしまうほど動揺していたのである。

次に、かなりあやしいグレーラインに存在しているのが「視力回復センター」なる人達である。彼らは眼科とは違うようだ。しかしYellow Pageにもかなりたくさんの数の業者がリストアップされている。彼らはだいたい自慢の医療器具を抱えていて、それを処方することで視力の改善を図ると主張しているようだ。この「自慢の医療器具」というのが前のカテゴリーに属する「奇跡の効果を持つ医療器具」と同じ印象を与える、と考えるのは私だけだろうか?もしそうだとすればそれを使う視力回復センターの信頼性もだいたいしれた物だ。しかしながら私は深く悩んでいた。今のまま健康診断に突入すれば「視力0.03。Sorry man.」と言われるのがほぼ確実な状態だったのだ。

おまけに私が時々通っている中華料理屋へ向かう道に、この手の「視力回復センター」がどうどうと店を構えていたのである。私の感情がもうちょっと不安のほうに振れていれば私はあのセンターの門をたたいていたかもしれない。

 

さて問題はこれから先であった。インターネットでいくらか情報をあさったり、世の中に蔓延しているあやしげな売り込み広告に長年つきあっていると、どうしたってそれらの見分け方に熟達してしまうことになる。しかし私はここから先の情報をよりわけることができなかった。これは一つには「近視の理論」を未だに私が納得していないことにも起因する。

近視になる理由、というのは半分位わかったような気がする。問題は次だ。一般に言われている理論として「眼鏡をかけないともっと度が進む」というものがある。これは眼鏡屋が得意な理論だ。幼いころも「無理しているともっと目が悪くなっちゃうよ」と言われたことがあるような気がする。

ところがそれとともに有名なのが「眼鏡をかけると度が進む」という理論である。これはどういうことだ?そしてこの理論は自分の経験から言えば確かに当たっているのである。私は当初裸眼視力は0.4,0.5あったはずだ。それが今は多分右目は0.1を切っているのである。

この「眼鏡をかけると度が進む」理論は、眼鏡屋以外が得意な理論のようである。そりゃそうだ。眼鏡を売りつけるときにこんなことを言う奴はいない。比較的まともそうなページをみれば「かけてもかけなくても度が進むというのが本当のところではないでしょうか」などと真実かもしれないが、救いのかけらもない教えが書いてある。結局何が原因で度が進んで、何をすればそれが防げるというのだろう?

いくつかある「視力改善」の方法のうち、多分効果は本当にあるのだろうが、ちょっとためらってしまうのが「レーザーで近視を根本的に治療」というやつである。確かに彼らが言っていることは理屈にはあっている。目のレンズが厚くなって戻らなくなったため近視になるのならば、それを削れば近視は直るはずだ。しかしこれは結構費用を要するし、なんだか不安だ。「あら。ごめんなさい。ちょっと削り過ぎちゃった」と言われたら失明するかもしれないではないか。そうした医者の宣伝文句は「米国では既に”近視は眼鏡をかけるものではなく、直す物というのが常識”」というやつである。

私はこうした「米国では。。」とか「東京では。。。」というキャッチフレーズを観ると、自動的に身構えることにしている。実際アメリカでも眼鏡をかけている奴は山ほど知っている。もし「米国では近視はレーザーで直すのが常識」ならば、彼らは何故それを利用しないんだ?彼らがみんなレーザーで治療不可能なタイプの目の疾病にかかっていると信じることができるやつがいるだろうか?

さて本当のところはどうなのか?比較的信頼が置ける、と自分で勝手に判断したページを観てみると、「ブルーベリー」が視力の改善に効果がある、というのも本当らしい。また「星空を見る」ということは比較的効果がありそうだ。これはスチュワーデスに応募した友達をもつ友達からも聞いた方法だ。

 

ここまで考えていた私はふとあることに思いついた。いままで「視力改善方法を売り物にしている人達の広告ばかり観ているから混乱するんだ。それを応用して見事自分の目標を達成した人達の意見を聞いてみようじゃないか」と。彼らが「視力改善方法を売り物にしいてる」人達からアルバイト料をもらってぐるになっていない限り、彼らはことさらに「嘘」をつくことなはないだろう。もっとも「アロエで癌が直った」式の怪しげな信念を吹き込まれる可能性はあるが。

さてそこに思い至った私はさっそく大きな本屋まで車を走らせた。目的は一つ。「スチュワーデス合格体験記」の類を捜すことである。実際スチュワーデスになりたいと熱望している女性は後を絶たないし、彼女たちが存在する、ということは彼女たち向けの書籍もきっと存在しているということである。試験には体力試験もあるようだし、視力も彼女たちの重要な関心事項であろう。

さて本屋につくと、「就職」関係の棚に向かった。考えてみれば私も「就職活動中」の身なのである。一つ面接方法の勉強でもしてみるか、とは全然考えなかった。それまでの経験で、会社ごとに面接の方法も聞く内容も全く異なる、ということを身にしみて知っていたからである。相手は必ずこちらの予想しない質問をする。それに答えるには文字面で方法を追っても無駄だ。最初からかまえずに素直に応対する以外に道はない。

さて思ったよりもスチュワーデスになりたい人のための本は多くないようだ。私は2冊しか見つけられなかった。一冊は「スチュワーデスの仕事とはどんなものか」ということを書きつづったものであり、ほとんど参考にはならなかった。私から観れば空中飯盛人なのであるが、その本を見た限りでは結構いろいろな仕事があるようである。

さてもう一冊の方にはいくつか参考になる話が載っていた。スチュワーデスには体力試験もあり、それに対してどのように準備したか、という合格体験者のアンケートが乗っていたからである。

考えてみればスチュワーデス希望のお姉さん達も体力の強化にまわす時間というのはあまり多くないし、文字をたくさん読んで勉強すればかならず視力のほうに悪影響が出る。そして彼女たちの苦戦の言葉は、今健康診断を目前にした我々に当てはまるようなものが多かった。曰く「尿検査で蛋白がでてしまった。再検査でOKとなった」などである。

視力に関しては「裸眼で物を観る訓練をしました」というのがあった。なるほど、これは一つやってみるか、というような言葉である。もう一つは非常に切実な物語だった。

「視力を計ったら両眼とも0.01と言われた。間違いかと思って再検査を頼んだらまた同じ値だった。目の前が真っ暗になったが、医者に言われた通りトレーニングをしたら、当日は0.3あった」

私はこれを読んで一瞬「これだ!」と思った。0.01→0.3となるのだったら、今の私が0.1をクリアすることくらい造作もないことではないか。

ところが例によって例のごとく世の中そう簡単にはいかないのである。その本のどこをどう読んでも「どうやってトレーニングしたか」とは書いてないのである。知りたかったら医者に行け、ということなのだろうか?しかし医者に行ったからといって「何?2週間後に0.1の視力にしてほしい?帰れ」と言われるかもしれないではないか。

なんだか希望がもてるようなもてないような気持ちのまま家に帰った。結局具体的な方法はどこにも書いていないのだ。

しかしそれからできることはしよう、という気になってきた。まず第一にしたことは、眼鏡を極力かけないで物をみることにしたことである。ホームページの情報にも「近視の場合は、必要なときだけ眼鏡をかけた方がいいでしょう」と書いてあったし、スチュワーデス嬢のお言葉にもあるではないか。すると結構眼鏡をかけなくても生活に困らないことに気が付いた。最近は「眼鏡をかけないと度が進む」という言葉を信じて、ほとんどいつも眼鏡をかけていたのであるが、そう眼鏡にたよらなくても生きて行けそうである。例外はコンピュータを使うときと車を運転するときだ。

そうして裸眼で外をぶらぶら歩いてなるべく遠くを見る訓練をするようにした。そうして2-3日たってみると、なんだかちょっと右目の視力が回復したような気がする。例の視力検査表で下手すると○がどこにあるかわからないような状態だったのが、ちょっと苦労するとなんとなくどこが切れているかわかるようになってきた。あとはこれがもうちょと向上するのか、しないのか。いずれにしてももう日はあまりない。

それから星空を観よう、と心がけてはみた。今は何の因果か仕事が無くて時間には非常に余裕がある状態なのだ。星空を観ることが目にいいのであれば、何時間でもみてやろうじゃないか。

しかし天はこの点において私を見放した。時は梅雨の真っ最中であり、「星空を観ることは目にいい」ということを知ってから一度も星を観ることはできなかったのである。

 

さてそうやって自分の視力を気に懸けながら、もんもんとしていてもあまり体には良くないし、だいたい退屈だ。今まで主な時間の使い道であったコンピュータに向かうことと、読書は極めて大幅に制限されてしまっているのである。しょうがない。映画でもみるか、、と思い6月26日の金曜日、私は映画館に向かった。観たのは"Major League 3"といやつである。結構この映画が気に入った私はごきげんでふらふらと出口に向かった。もちろん眼鏡を外しながらである。

するとぼんやりした視界に、どこかでみたことがある二人連れが目に入った。向こうもほぼ同時にこちらに気が付いたようだ。相手はNX号夫妻であった。この二人は大変仲がよい。この前の英語の試験の時も、試験終了後NX号は奥様とおデートだったのである。彼らは「あれ?大坪さんは一人ですか?」とかなんとか言って後ろを見たが、私にはやましいところは一つもない。若い頃は一人で映画を見るのに多少心理的抵抗を覚えたが、最近ではすっかり慣れてしまった。仮に心理的抵抗を覚えたとしても、今の私にはどうしようもないのである。私は「そうだよ」と笑った。

彼らはこの後のDeep Impactを見に来ていたようである。しかし信じられないことだがこの映画は異常な混み方だ。我々が立ち話を始めたその横で「次のDeep Impactは立ち見になりまーす」という映画館のおにいさんの声が響いていた。

私は彼らに「この映画は立ち見して見るほどのもんじゃねえよ」とか何とか言っていた。そして話題は当然のことながら一週間後に迫った第一次選抜のことになるのである。しばらく立ち話をしていたが、「ここじゃなんだから」ということで我々は近くの喫茶店に場所を移してしばらく話し込むこととなった。

私も彼も最大の懸案事項は視力である。彼は最初に自費で行った健康診断の時の視力検査で「一番上見えますか?」と聞かれ「見えません」と言ったところ自動的に0.1と書かれたそうである。健康診断の結果記入のフォームには「視力は重要な要素ですから、精密な測定をお願いします」などと注意書きが書いてあったが、まあ世の中の注意書きがたどる運命なんてのはだいたいこんなものであろう。

彼ら夫婦も視力に関してはいろいろな研究をしているようだった。NX号は「日曜日にブルーベリーのエキスを買いに行こうと思ってるんです」と言った。私はこの文章に書いたような情報をぺらぺらとしゃべったが、あまり彼の役にたてたとも思えない。彼は「なんで矯正視力じゃだめなんでしょうね」と言った。私が思うに、何かすごい衝撃があって、眼鏡なりコンタクトがふっとんだ状態で「なにもみえませーん」状態になるとまずいからでは無かろうか、と思うのだが。

話題は次に「筆記試験って何がでるんでしょうね」に移った。私はこの筆記試験に関しては完全に開き直っていた。案内に書いてあるのは「一般教養」だの「基礎的専門知識」だのいうなんとも類推のしようのない内容であり、おまけに「試験の内容については一切お答えできません」という注意書きまで書いてあったのである。この状況でどうせいっちゅーんだ、という奴である。

しかしNX号はそこまで慢心してはいなかった。彼は「公務員試験」の問題集をぱらぱらと観ていたそうなのである。言われて初めて気が付いたが、これは結構いい線をいっているのかもしれない。今回宇宙飛行士に選ばれる、ということは「宇宙開発事業団の職員になる」ということなのである。入社試験と言えば、この場合公務員試験のようなものだ。

彼は「結構むつかしいんですよ」と言った。私はそこで自分の怠惰さをカバーする以下のような理論をでっちあげた。

きっとNASDA一般教養にあまり重きを置いていないのではないだろうか。あまりに教養に欠けた奴を宇宙ステーションに乗せると困る、って位の位置づけでは無かろうか?

たとえば視力は2.0、英語も満点でも「蛙は何類でしょう?」という問題に「鳥類」と書くといくらなんでも落ちるのではなかろうか。今回搭乗予定なのは国際宇宙ステーションなのである。蛙の実験設備をみながら他の国の搭乗員に「これって羽が生えてないよね。大きくなったら生えるのかな」などと話しかけれるとNASDAのメンツにかかわるだけでなく、その瞬間地球に向かって放り出されてしまうかもしれない。

さて私自身、ぺらぺらとしゃべりながら、自分の説明に釈然としないものを感じていた。しかしこの試験に関してははっきり言ってなんのあてもなく、いまさら努力してなんとなるものでもないだろう、とは感じていたのである。打つ手が無いときは自分をだまして精神の平安を得ることくらいが唯一最善の対処法だ。

次には「ある男」の話題になった。あの奥さんに無理矢理願書を書かされた男のことである。実際私は彼が受かったかどうかしらなかった。彼とメールで話をする機会はあったのだが、なんとなくそういう話題をするのが気が引けたからである。

私が彼とある日程の打ち合わせをやっていたとき、私は「7月4日、5日はいけません」と書いた。すると彼も同じ日が都合が悪い、と主張してきたのである。

理論的に考えれば私が書類審査に合格して、彼が落ちるわけはない。しかし何が起こるかわからないのがこの世の常だ。なんとなく言いそびれていた私だが、これで彼に筑波でも会うことになりそうだ。彼が宿を決めているかどうか知らなかったので、「私とNX号は○○に泊まります」と書いて送った。

さてNX号が語るには、そのメールを読んでかどうか知らないが、「その男」が職場でNX号のところに行って「君もいくんだって?」とかなんとか声をかけたらしいのである。NX号はそうやって声をかけてもらって大変うれしかったと言った。仕事上では「その男」とNX号はあまり関係はないのでそれまであまりしゃべったことも無かったらしいのである。一見クールで近寄り難い印象を与える男であるが、内面は大分外見と印象が違う。こうやって声をかけにいくあたりが彼の偉大なところだ。

さて喫茶店でわーわーしゃべっている間に時間は過ぎていった。この日はW杯での日本の最終戦、対ジャマイカが行われると言うのであまり長居するわけにもいかない。「土曜日はぱーっとやろうね。中性脂肪がなんだー。視力がなんだー、って感じで」と約束しながら彼らと別れた。そう。じたばたしてもあと一週間後には検査が来る。土曜の晩には健康診断も終わっているし、残りは得体の知れない筆記だけ。みんなで仲良く騒ぐことにしよう。それまではちょっと節制の毎日だ。

さて「私が受かる可能性は、日本が一次予選を突破するのと同じくらいの確率だ」と言ったW杯であったが、各TV局のちょっと脳味噌の構造に疑問を抱かせるようなアナウンサー達のはしゃぎようとは裏腹に実力通りの結果がでた。3戦全敗である。こちらの「1次予選」がどのような結果になるかは数週間後にはっきりすることだ。

 

さて7月1日の朝、私は実家に帰った。これから連続で面接と選抜試験があるのである。帰る間際に母に「もう筑波行ったの?」と聞かれた「今週末だよ」と答えると、母は例の調子で私をからかい始めた。

「まあ。絶対大丈夫。あなた受かるわ」

あまり人をからかうのを止めないので、またもや私は反撃する義務を感じてこう答えた。

「いいですか。お母様。万が一私が受かったら、今のセリフを使ってお母様を日本中の笑い物にしてみせますからね」

しかしこんなことでひるむうちの母ではない。

「大丈夫よ。私の息子なんだから。あなたは私に似て緻密な頭脳を持っているのよ」

自慢じゃないが私は自分が間抜けである事に関しては自信がある。このホームページに大量発生している誤変換をみてもらってもわかると思うが、だいたいやることは抜けている。これのおかげで、マネージャーといいながらプロジェクトのマネージができず、困惑したあげくに細かいところばかりにこだわることに安らぎを見いだすタイプの上司には大変評判が悪い。(他のタイプの上司に評判がいいわけではないが)

そして私は性格の多くを母親から受け継いでいる(母親に言わせると「あたしは五郎ほど脳天気じゃないわ」なのだそうだが)母も「あたしが運転なんかしたらどうなるかわかるでしょ」と言って生涯運転免許をとることを考えもしなかった人だ。

母はこの「緻密」という言葉が自分で気に入ったらしく、何度も繰り返してご機嫌だった。私はついにはだまった。結局母親を黙らせることは私にはできないのだ。下を向いて「ぶつぶつぶつぶつ」と言ったら、母親はケケケケと笑った。

さて母親の祝福があろうがなかろうが試験はやってくる。

次の章


注釈

空中飯盛人:(トピック一覧)トピック一覧から関連文章をたどってもらうと、何故私がこんな表現を使っているか分かってもらえると思う。本文に戻る

 

Major League 3:この映画の感想については、「映画評」のMajor League 3の項を参照のこと。本文に戻る

 

この映画は立ち見して見るほどのもんじゃねえよ:これまた私が何故こんな感想を抱いたかについては、映画評のDeep Impactの項参照のこと。本文に戻る

 

私は自分が間抜けである事に関しては自信がある:(トピック一覧へ)間抜けというかがさつというかとにかく大ざっぱである。本文に戻る

 

困惑したあげくに細かいところばかりにこだわる:(トピック一覧)社会でよくであう「困ったとき」の処世術。自分が良いか悪いかすら理解できない資料をつきつけられても「誤字、脱字が多い。君は不注意だ」と言えば、なんとなく自分が偉いような気になれる物である。本文に戻る