夏の終わり

日付:1998/12/23

五郎の入り口に戻る

合コン篇+引っ越し準備:1章 2章 3章 4章 5章 6章 

米国旅行篇:7章 8章 9章 10章 11章 12章 13章 14章 15章 16章 17章

引っ越し篇:18章 19章


18章

さて帰ってくれば水曜日だ。今回の旅行は最後が思わず長くなってしまった。部屋に戻ってみれば、特に何が変わっているわけでもない。玄関に落ちているのは例の会社から内定通知である。一応速達になっているのが彼らにとっての心遣い、という奴だろう。しかし入社の2週間前に内定通知を出すとはねえ。。

開けてみればほんの数行書いてあるだけである。「内定しました。あとはよろしく」これでは必要な情報は全くわからない。この前電話でぺらぺらしゃべった内容で何とかしろ、ということか。

しかし今はこの通知に関わっている暇はない。本当に横浜で働くことになるのだから引っ越しをせねばならん。と気合いだけは立派だが、いきなり私は布団に潜り始めた。私は昼に寝るのが大好きだ。働いている間はできないから、土日の昼は寝てばかりいる。今日も長い長い旅行が終わった後だからすぐ眠れるだろう、、と思って横になっては見たが何故か目がさえてしまって眠ることができない。

しょうがないから、起きてごそごそ荷造りを始めた。考えてみればもうあまり日がないのだ。

まずは段ボールを調達せねばならん。ここにすんでいた3年位の間にずいぶんと持ち物が増えてもんだ。いくつくらい必要だろう?などと考えながら金物屋に行った。

段ボールの調達というのはいつも引っ越しのたびに問題になることである。用が済めば速やかにゴミ箱行きになる段ボールだが、引っ越しの時に必要だと思ってもさてどこにあるのだろう、、と腕組みをすることになる。その昔スーパーとかに行けば譲ってくれると聞いてもらいにいったら、一つ当たり50円位取られた。まあ背に腹は代えられないというからその値段で引き取ってきた。しかし近くには思い当たるようなスーパーがない。この金物屋は広くて何でも置いてあるから段ボールも売っているかもしれない、と考えたわけだ。

段ボールってありませんか?と聞いたら奥にあるから持っていっていいよ、と言われた。幸いにもここはただでくれるようである。あまり愛想がいいから、荷造り用のガムテープも買った。さてこれからしょこしょこと荷造りだ。

まずは本と洋服から詰めていく。大学の時初めて引っ越しをしたとき、一つの段ボールに本ばかりつめて後でひどい目にあった。従って段ボールは全部洋服と本の混積だ。次に考えることは何を最後まで残さねばならぬか、ということである。この計算を誤ると、段ボールを何度も開けたり閉めたりすることになる。だいたいに置いて私はこの見積もりが下手だ。というか特に引っ越しの間際は忙しくて頭がいつも以上にぱっぱらぱーになっているので、だいたい必要なものを最初に箱詰めし、全く入らない物を最後まで持っていたりする。

翌日は実家に帰った。これから父と母の顔を見る頻度も大分減るだろう。近くにいる間に顔をみせなければ、、というのは理由の内の一つだ。一番大きな理由は今日はあちこちの電話とかガスとかそういったものを止めたり、あるいは新しく契約したり、とかの作業をするつもりだったのである。止める方はこの近辺だから問題ないが、新しく契約する方は横浜だから、電話料金が馬鹿にならない。というわけで実家の電話をつかいまくろう、という自分で書いていてもいやになるくらいせこい計算が裏にあったのである。

いろいろ電話をしたなかで一番向こうの愛想がよかったのはNHKである。NHKの領収書には「転居の際はここまでお電話を」ということで、フリーダイヤルの番号が記載されている。しかし考えてみれば世の中にこれほどたくさんNHKの料金を払いたがらない人がいる状況では、転居の時に行き先をわざわざ教える人はあまり多くないのかも知れない。相手の口調にはいくぶん「おお。こいつ本当に電話をかけてきやがった」という響きが会ったように思うのは私の気のせいだっただろうか。

こうしていろいろな手続きをしていくと本当に自分が転居するのだな、という気になっている。それでなくても崩壊状態のアパートはだんだんと段ボールが増え、あまり人が住むべきところではないような風景になってきている。そして昼と夜は宴会にでたりで忙しい。これがいつもの引っ越し間際のドタバタというやつか。

さて金曜日の朝には大家が来て、アパートの修復に必要な費用の見積もりに来た。後で気が付いたことであるが、この大家(小さな会社なのだが)は明らかに仕事によって人を使い分けている。最初の成約のときは大変愛想のいい人がでてきて、ちょっとびっくりした覚えがある。逆に今日のとりたての時には理屈の全く通じない、うちの父であれば「女シャイロック」とでも形容するような女性が来た。彼女は胸の肉を一ポンドとると、不動産屋の内規(私との契約書にはそんなことは書いてない)に書いてあれば何が起こってもその肉をとっていくような人間だった。商売というのはこういう風でなくてはできない。やはり私は下っ端サラリーマンとしてやっていくのが分相応のようだ。

そして人にあったり、友達の家におじゃましたり、と日は過ぎていった。土曜日の夜はMr.Kの家におじゃまである。この男には格安の値段で私が使っていたMacintosh Duo 280をゆずってやったので、それにつけこんで私は何度かただ飯をごちそうになっているのである。この家は大変気楽にくつろげる場所だし、奥様の料理は大変おいしいのでいつもこの家を訪問するのは楽しみだ。この日は事前に「なんか料理のリクエストはありますか」と聞かれていたので、「かぼちゃ」をお願いしていた。でてきたかぼちゃの煮物は大変私を幸せな気分にしてくれた。

この日はMr.K夫婦に加えてMr.K夫人の友達のO木、それにKBが来ていた。最初は奥様の母上の話などを聞いて腹をかかえて笑っていたが、そのうちMr.KとKBに酒が回り始めた。Mr.KとKBはしばらく演説をぶっていたが、そのうちKBは隣の部屋で寝始めた。そしてしばらくして立ち上がって外に出ていった。それから彼は外を徘徊したあげく足を捻挫して帰ってきた。こうして書いていてもわけがわからないが、これが彼らなりの送別の儀なのだろう。

日曜日はだいたいからになった部屋の中で一日ねていた。部屋の中の段ボールは増えていき、それに反比例して部屋はだんだん物置のようになっていく。最後まで残るのはコンピュータと電話と布団だろう。もう既にその他のものはほとんど袋か段ボールの中にはいってしまっている。(もちろん必要なものを荷造りしてしまい、それらをひっくり返す頻度もそれにつれて多くなったのであるが)

 

さてここを出発する前日の月曜日は忙しい。まず早起きして朝一番にレンタカー屋に車を取りに行った。開店と同時に飛び込んだら、女性の従業員がそっけなく対応してくれた。

実はこの日の予約をしたときに「タウンエース」とは言っていたのだが、それが本当に荷物運搬用のワゴンであるかどうか。仮にそうだったとして、私の部屋の荷物を全部収納することができるかどうか、というのはここ数日やたらと気にしていたことだったのである。町を走っていると、それとおぼしき車をみつけては「ああ。あのサイズだと入りそうな気がする。しかし実際に段ボールを並べてみると、実は車のほうが小さいかも知れない」などと妙な妄想に浸っていたのである。

さて渡された車を見れば、まごうかたなき荷物運搬用の白いワゴンである。後ろの荷物室をみてみたが、なんとか入りそうな気がする。とはいっても実際に荷物をつんでみるまでは本当のところはわからない。とりあえずご機嫌になった私はそれを運転しててけてけと自宅に向かった。私は運転がとても下手なので、サイズの小さい5ナンバー車を選んだのだが、これは大正解だったようだ。背こそ高くなったが、特に問題もなく運転できる。

さてアパートに帰るといろいろと忙しい。まずは荷物の積み込みだ。

いつものことであるが、こうやって3階から荷物を一つ一つ運んで、しかも車の中に放り込んでとういうのはとても面倒な作業だ。車から目が離れる瞬間があるので、そのたびごとに車の鍵をかける。この近辺では車に鍵をかけなくても大丈夫、だとこのアパートに決めるときに不動産屋に聞いたし、実際盗難なんかあったことがない。それに誰が私がもっている埃だらけの荷物を盗もうと思う?しかし私はとても小心者なのである。

最初のいくつかの荷物は大変快調に運ぶことができた。しかしそこからペースはがたっと落ちた。3階という階段はとても長いし、夏は終わりに近づいているはずなのに、汗は滝のように流れ落ちる。そのうち私はシャツ一枚になっていた。予定では8時半頃から荷物の積み込みを初めて9時半頃には次の手続きに移るはずだったがまだ2/3しか終わっていない。しょうがない。ここでいったん荷物の移動はうち切って各種届けを書きに行くか。

さて今日はここまでこないとやる気のでなかった書類がてんこもりである。転出届、それに郵便局への住所変更の届け等々。それまで私は市役所にいかなくてはそういう手続きができないか、と思っていたのだが、近くにある「ふれあいセンター」なるあやしげな建物でもできる、ということを知ったのはつい最近のことだ。そこまで歩いていってはんこをぱんぱんと押してはい手続きはおしまいである。なんだかあっけないような面倒なような。しかしこうしてあちこちに転居のお知らせをだすのは面倒だなあ。。どこか一カ所に出せば関連各所に行き渡るようにならんもんかな、、と妙な事を考えつつ缶コーヒーでも飲んで一服である。

手続きが終わるとまた戻ってひたらすら荷物運び。ここまでは何も考えずに荷物を放り込んでいれば良かったが、だんだん難しくなってきた。どうも荷物の量は上手につめこめばはいるが、下手に詰め込めば入らないという物であることが判明してきた。いったん積んだ荷物を下ろしたり、配置を換えたり。結果として荷物の移動速度はとてもゆっくりとなった。

そのうち荷物を上手に効率よく詰め込むと結果として運転中に後ろが見えなくなることに気が付いた。上手に詰め込むとは余分な空間をなくすことだから当然の帰結といえるのだが、これはいくつかの問題を引き起こす。まず第一に私は運転中結構後ろを気にする人である。ルームミラーを見たら、そこには段ボールが写っていたなんてのはあまりうれしいことではない。次に後ろが見えないくらい荷物を積むと、何か法律上問題がでるのではなかろうか、という強迫観念に襲われた事である。

しかし考えてみればこれは馬鹿げた話だ。世の中には妙な色にぬって妙な絵を描いたワンボックスの集団にでくわすことがある。あれは後ろなんか全然見え無いじゃないか。彼らが大手を振って運転をしているならば、ちらちらであっても後ろが見える私が文句をつけられる筋合いはないってもんだ。

そうした理論を考えだして、強迫観念を追い払った私はぶつぶつとのろいの言葉を吐きながらなんとか荷物の積み込みを終えた。後ろの荷物室はありとあらゆる種類の荷物で充満している。しかし明日はこれを横浜まで運転していったあげくに今度は2階に運び上げなくてはならないのである。冷静に考えればとんでもない話なのだが、今はそんな考えに浸っている暇はない。ワゴン車を適当なところに駐車すると愛車エテルナに乗って実家に向かった。

さてこの車は昭和63年に購入した物だから、およそ10年になる。購入直後に私の留学が決定しずいぶん泡をくったものだ。買った当初はそれまで乗っていた軽自動車であるところのミニカにくらべて大きくなった物だから、うれしくなって、ワックスをかけて洗車するなどということをやっていた。このとき車についてきた「洗車の手引き」を読んで、ちょっと妙には思っていたのである。それには「洗車の後には水気をよくふきとってください。水滴が残ると塗装にムラが残る可能性があります」などと書いてある。そんなことが真実ならば、雨がふっただけで車はまだらになる理屈ではないか。まさか雨がふったらただちに車から水気をふき取れなんてことは誰にもできまい。

そうした疑問をいだいているところに米国生活だ。一般的に米国の車というのはべこべこにへこんでいたり、すさまじいものだが、常春の国Stanfordではさらにそれはすさまじい。ボンネットがなくて、エンジンむき出しで走っているもの、ドアがなくて黒いビニールがはってあるもの、こったやつになると、元ガラスがあった場所には透明のビニールをはっているやつまでいる。

しかしながら、ビニールは行き過ぎと思うが、別に外がべこべこへこんでいても車の基本機能には全く問題がないのである。彼らは堂々と公道を走っている。この米国の車事情を見て私はよくよく考えた。別に車がよがれていこうが、へこんでいようが気にしなけりゃどうってことないじゃないか。車の表面が汚れたり傷がついたり、へこんだりすることを厭うのであれば、大事に部屋の中にかざって、カバーでもかけておくべきなのだ。そんな大事な物を屋外で振り回すなんてのは狂気のさただ。

 

そう悟りを得た私は平成4年7月からというもの、一度も洗車をしたことがない(車検にだしたときに勝手に洗ってくれるのは別である)外装に傷がつこうがへこもうが、機能に問題がないかぎり全く気にしていない。このことによって誰が被害を被ったかどうか知らないが私は全く快適だ。今時々駐車している場所は(別に違法駐車じゃありません)幼稚園の通学路でもあるし、いたずら小学生も通る。気が付けば車の側面に筋が何本か増えているが、これも気にしなければ全く問題はない。「錆が広がって、ドアがおちるぞ」と脅かしてくれた人達はたくさんいたが、今のところそうした気配もない。

外観はどうだか知らないが、この車は大変気に入っている。大きすぎず、小さすぎず。基本はハッチバックだから大きな荷物を載せるにも都合がよろしい。走りも快調で、ちゃんと高速でも追い越しもできる(たまにだが)

さてこのように私はこの車を愛しているのであるが、今回の引っ越しにはいろいろと問題が付随していた。私の行動パターンでは、東京、横浜エリアにすむ場合車が不要であることを学生時代の経験から知っていたからである。それでも最初不動産屋に戯れに「駐車場代はいくらくらいですか?」と聞いたら、帰ってきた答えは「月2万円」だった。ちなみに今私が借りている駐車場代は月4500円である。この落差はなんなのだろう。

従って今回の引っ越しを決意したとき、私は正直「この車もさようならかな」と思った。なんといってもほとんど乗らないのに月2万円も払えるほど私は金持ちではないのだ。おまけにこの車をもらってくれるほど外観に寛容な人間がそうたくさんいるとも思えないし、中古車屋で引き取ってくれるとも思えない。となると廃車になるわけだが、そうなると思うと情が移っているだけになんだかもったいない気がしてくる。

というわけで一番安直で意味のない解決策をとることにした。「とりあえず」という意味の無い形容詞をつけて名古屋に車を置いておくことにしたのである。

実家に車を置いて、電車でアパートに戻った。もう回りは真っ暗だ。部屋の中にはほとんどなんにもない。先日までは段ボールがあったが、それすらなくなってしまった。ころがっているのはコンピュータと電話、それに今夜一日すごすのに必要な歯ブラシなどだけだ。

さて私は明日の事を考えた。向こうの不動産屋に電話をしたときに火曜日は午後の1時までに到着するように言われていた。なんでも不動産をあつかう資格を持った人がその時間をすぎると店をあけてしまうとかなんとか。もし1時から遅れると3時まで手続きはできないという。そうなると荷物の搬入もそこまでできず、私は窮地に立たされることになる。この大量の荷物を運ぶのは気が重い仕事だが、それが回りが暗くなってから、ということになると更に気分は憂鬱だ。

となるとなんとか1時までに不動産屋に着くことを考えるわけである。それまで何度か春日井インターと横浜のインターの距離を調べて、何の根拠もないのであるが、私はなんとなく高速は急げば3時間、ゆっくり行って4時間と思っていた。そして横浜インターからの道のりを一応詳細にしらべたがそこから全く根拠のない計算によって、インターを降りてから一時間、と踏んでいた。

となると1時前ということで12時半につこうと思うと、急いだパターンで8時半、ゆっくりのパターンで7時半にでる必要がある。しかし私はここで一つ馬鹿なことをした(私がやった馬鹿なことはこれ一つではないのだが)最後の晩に風呂にはいることに妙にこだわったために、ガスを止めるのを当日の朝にしたのである。そしてそれには本人の立ち会いが必要なのである。従って明日の朝はガス屋がくるまでここを出発することはできないのだ。

とにかく朝早く来てください、とは言ったが彼らの就業時間を無視することはできない。一番早くてこれる時間は8時半だという。しょうがない。8時半にガスを止めてそこから爆走を繰り返して3時間コースで走るしかない。

そんなことを考えているうちに、眠くなった。そろそろ寝るか。

季節はうつりかわり、いつのまにか夜は何かを着て寝たいような気候になっていた。夏は終わろうとしている。とはいっても部屋の中に布団はすでにない。頭の下にあるのは座椅子の上にしいていたクッション、体の上にあるのはさっき外したばかりのカーテンだ。何故こんなことになったのだろう。

私はずっと一組の布団を愛用していた。しかしその布団カバーなるものを定期的に洗うことを怠っていたのである。その結果布団はあまり他人に見せられないようなすさまじい状況になっていた。うちの母が、私が横浜に行くと聞いたときに何を一番最初に言ったかというと、「あんた横浜行く前に布団をもってきなさい。一式とりかえてあげるから」というやつである。母にしてみれば私の布団がどういう状況になっているか先刻お見通しというわけだ。

さて新しい布団を受け取って車の中に放り込んだのは日曜日である。新しい布団はさすがに清潔だが、私が予想したよりも遙かに重かった。実家の玄関を通って、車に放り込むだけで私は結構つかれてしまった。アパートに戻って考えた。この布団をあの3階の部屋まで運び上げる必要があるわけだ。アパートの自分の部屋を見上げて考えること約3分。私は決断した。このまま自分の車の後部座席に放り込んで置こう。明日(月曜日)車を借りたら、そのまま水平移動させて引っ越し用の車に放り込めば布団を3階まであげおろしする手間がはぶけるってもんだ。これは天才的な発案だと思えた。仮にここまで読んでいる人がいれば、「何をあほらしいことを。どこが天才的だ」と思うだろうが、当時汗だらだら流して布団を運んだ直後の私にはそう思えたのである。

しかしこの計画には致命的な問題があった。布団は車で無くては運べない。従って実家に車を置きにいくときに今まで使っていた布団を運ぶことにした。この時の光景はなかな傑作であった。布団を開けると、母はまず顔を背けた。次にゴミを入れる黒い袋を持ってきて「あんた、カバーをはいでこれに入れなさい」といった。入れると、母は口を硬く締めてそのままゴミ捨て場に持っていった。

前述した天才的な発案の結果として新しい布団はミニバンの中である。古い布団は既に実家だ。結果として月曜日の晩、すなわち今晩は布団がなくなってしまった。

 

最初は布団なしで、床の上にころがろうかと思ったが、ふと見れば部屋にカーテンが残っていた。これにくるまってみるとなかなか調子がよろしい。これでなんとか今晩をすごせそうだ。さて、明日ガス屋さんは何時にきてくれるだろう。今日こんな硬い床の上で眠れるのだろうか?などと考えているうちに私はぐーすかねていた。なんだかんだと疲れていたのだろう。

 

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注釈

車が不要である:学生のころは自分が車を所有するなど夢にも考えなかった。逆に就職して名古屋にきたら、車がないと何もできないことを身をもって学んだのであるが。本文に戻る