2012-01-31 07:13
とういうわけでいきなり引用。内容は昨日のエントリーにも繋がっている。
これは日本の現状そのものだなーとおもうのは、あたらしいことを進めるときに担保として「過剰な保証」を要求することで、 みえないことや答えのないことに取り組むのが下手なのは、個人レベルでもじぶんで答えをつくる作業に慣れてないからだ。 日本は正解をえらぶ教育から答えをつくる教育にシフトしないと、世界でおきているゲームに参加できない。
via: 橋下市長に「ついてゆけない」ひとたち。 - 所長サンの哲学的投資生活 ( フィリピン攻略篇 )
みんなで決める。いい言葉だよね。しかしつまるところ日本の家電メーカーが不振を極めている理由もこれではなかろうか。
TV事業が焼け野原になりました。ではどこに解があるのでしょう?それを自分で作り出し、それに向かって努力する、なんて芸当はまず無理だ。それで売上が上がる、という計画はあるのかね?
結局のところ「みんなが納得できる(けど誰も信じていない)解」に落ち着く。やっぱり画質だよ!終戦間際には「誰も信じていないソ連を通じた和解案打診」になーんとなく望みを託すようなことをやっていた。日本の家電メーカーでもそうしたことが起こっているのではなかろうか。
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でもって「道なきところに道を切り開いた」Appleである。先日こんなグラフを見つけた。
時にわれわれは、何かの大きさに心から感服せざるを得ないことがある。
via: グラフで見るiPhoneとiPadの異常な売れ行き
特にiPhoneとiPadのグラフは「異常」である。しかもこの売上がほとんど一機種からなりたっていることを考えると畏敬の念を禁じえない。
もっと言えば、iPhoneの売上は去年の2倍になっているのだが、そこで売れているのは「iPhone4S」であり、去年の機種のマイナーチェンジ版であるということ。春モデルだ、夏モデルだと頻繁な機種開発を繰り返している日本の携帯電話メーカーには心底同情を禁じえない。
どうしてもAndroidを使いたい、というのであれば止めないが、Androidマーケットは捨て、Amazonのようにできないものか?つまりAndroidを本来の「OS」として利用するのだ。そしてiPhoneのように、2年に一度のメジャーバージョアップ、一度のマイナーチェンジでいいではないか。良いものであればそれでも売れる、ということをAppleが証明している。
これも「みんなで決めよう」だと「新モデルを出した直後の売上はこれだけ増加する。この増加分を捨てることはできない」でボツになるのだろうけど。
2012-01-30 07:08
時々「ある種の製品」を持ち上げる必要性もしくは意思を強く感じる記事を見つけることがある。
しかし、実際に現場で取材をした感覚からすると、報道ほどに日本メーカーが沈んでいるという印象は持たなかった。日本のメーカーに米国のメディアや流通が興味を失っているという報道は、かなり偏ったものだと思う。
via: 【本田雅一のAVTrends】"日本のテレビメーカーはダメ"論は本当? -AV Watch
何度かこの記事を読み返してみたが、結局日本メーカーのどこが「良い」かがわからない。どうも
日本の電機メーカーがビジネスのスタイルを変えなければならない時期に来ていることは確かだが、優れた製品を生み出す力の関係が大きく変化しているとは思わなかった。むしろ画質に関しては以前よりも差が開いている。
via: 【本田雅一のAVTrends】"日本のテレビメーカーはダメ"論は本当? -AV Watch
要するに日本製TVの画質は韓国製のそれを引き離している。であるから生産量で負けても収益が真っ赤っかでも大丈夫だ、という論旨のようだ。
親愛なるソニーは
これから、さらなる液晶テレビの高画質化、4K2K、有機ELテレビ、それに未来のCrystal LED Display。高画質という切り口でいくつもの話題がある。事業環境は厳しいですが、高画質化持ちネタが今は豊富にありますから、我々は恵まれている。もう一度、テレビの原点である高画質に立ち返り、ハイエンドにユニークな製品を置き、それを徐々に低価格化していくという流れを作っていきます
via: 【本田雅一のAVTrends】"日本のテレビメーカーはダメ"論は本当? -AV Watch
ということでいくつものバズワード(自分たちに関係がある)を並べ「やっぱりTVは画質が一番!」と主張し
今後、テレビも4K2Kとなっていくでしょうし、何年か後には有機ELテレビもやってきます。ハードウェアだけを提供するだけでは、同じコンテンツを共有する他社との競争になり、利益を上げる前に安売りになる。それでは粗雑乱造にしかつながりません。かつてのテレビと同じ道を歩むのは、二度とやりたくない。
via: 【本田雅一のAVTrends】"日本のテレビメーカーはダメ"論は本当? -AV Watch
パナソニックは、「焼け野原」になった事は認めつつ別の方向を模索すると言ってはいる。
では再び浮上していくにはどうすればいいのか。そこにはまだ、明確な道筋は見えてないように思えるが、ひとつの方向としてインターネットを通じたコミュニケーションツールとして、もっとテレビを活用する流れに乗りたいという。
via: 【本田雅一のAVTrends】"日本のテレビメーカーはダメ"論は本当? -AV Watch
とはいえ、それが何かは多分分かっていないのだと思う。
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「画質が素晴らしい日本のTVは無敵!」という論に反駁するのは
「イノベーションのジレンマ」
の1フレーズだけで十分だ。専門家の目から見て画質がどうだろうと、今やTV売り場に並んだ画面だけをみてその画質を区別できる人間がたくさん存在するとは思えない。つまりTVの画質は既に消費者の要求をはるかに追い越してしまったのだ。
もちろん家電メーカーに勤務する人は優秀だからそんなことなど100も承知だと思う。問題は「組織」になるとその声が消えてしまうことだ。
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さて、ここで少し想像をたくましくしてみよう。この状況で「いや、日本のTV製造の未来は明るい!」という記事を書かざるをえない(あるいは書きたい)とする。どういった論旨の組み立て方があるだろうか?
1)TVの生命線は画質!日本メーカーの画質への取組みはこんなに先端的!
2)TVのハードだけ作ってもダメ。TVはプラットフォームでその上に載せるコンテンツで儲けるビジネスモデルの転換!日本メーカーはその分野で先駆けてる!
ぱっと思いつくのはこんなところか。
本田氏の不幸は、2社にインタビューしたはいいが、2社が両方共どちらかの選択肢をとってくれなかったことだ。本田氏自身は緩やかに1)を主張しているようだが、ソニーは1)といい、パナソニックは2)といった。結果としてわけがわからない記事となってしまった。嗚呼。
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Twitter を見ていると、どうもNHKのクローズアップ現代で同様の「問題」が取り上げられ、日本メーカーの将来に悲観的な報道があったようだ。しかしこの記事を引用し
"CESにおける日本メーカーのテレビと米国市場 // "何処かから指示が飛んできたかのように、国内マスコミが一斉に始めた日本製のテレビや自動車に対するネガティブ報道と韓国上げですが"
via: Twitter / @Fuwarin: "CESにおける日本メーカーのテレビと米国市場 ht ...
NHKが時々公共放送と思えない、「特定の立場に固執した報道」を行うことには同意するが、これがそれ故と断言できる神経にもうらやましさを感じる。
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でもって今日本のTVメーカーの内部では何が起こってるんだろうね。きっとみんな忙しく残業とか徹夜とかしてると思うのだけど。
2012-01-27 07:03
ふーん。本当にヤル気なんだ。
日本テレビ放送網、テレビ朝日、TBSテレビ、テレビ東京、フジテレビジョンの民放キー局5社と電通は、共同で推進するテレビ向けVODサービスの名称が「もっとTV(テレビ)」に決定したと発表した。4月2日にスタートする予定だ。
もっとTVは、地上波放送でのリアルタイム視聴を促進し、番組視聴時間を拡大することを目的に開始されるもの。民放キー局5社に加え、NHKの参加も検討中だ。
via: 民放キー局5社がテレビ向けVODサービス「もっとTV」スタートへ--NHK参加も - CNET Japan
アクトビラVer2というわけだが、そもそもなぜアクトビラが全く普及しなかったか、、考えているのでしょうね。紙の上では。しかしあれだねえ。多分誰も使っていないデータ放送とか、アクトビラ×2とか次から次へとよくもまあ同じようなことを繰り返しますねえ。
悪い管理の第1法則、悪いコンサルティング の第1法則
うまくいかないことがあったら、もっとやれ。
via: ワインバーグの本を読む(11) - 検索迷子
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多分これは前に書いたと思うのだが、欧米の映画を見ていると「TVをつけっぱなしにしている家庭」というのが時々でてくる。そして「つけっぱなしのTV」というのは、まああまりよろしくない家庭の記号でもある。
これも前に書いたと思うのだが、製品やらサービスを作るときのスタンスには2種類ある。「自分で使いたいものを作る」場合と、「自分では絶対使わないが、使う馬鹿がいるものを作る」場合だ。前者にはiPhoneやiPadが該当し、後者にはマルチ商法とかソーシャルゲーム(笑)とかTVが該当する。
TV関係の人もたまには「自分で絶対使うからこのサービス作りましょう!」ということを考えてみたらどうかな?
2012-01-26 06:55
というわけで九州工業大学のPBLプロジェクト成果発表会 に参加した。(なぜかページが消えているので、Googleのキャッシュにリンク)
最初は、普通の大学の発表会だと思っていた。会場に一歩足を踏み入れたところで「をを」と思う。司会はプロを二人雇い、機材も本格的だ。舞台には移動式のカメラも設置され、状況に応じて画面を切り替える。このものすごいリソースはどこからやってきたのだろう。
PBLとはPorject -based learningということで「課題解決型学習 」なのだそうな。謳い文句には「問題発見、問題解決」という言葉もあったように思う。
3年生が一年かけて取り組んだ成果の発表会、ということでほぼ全員スーツである。一グループだけ普段着だったのだが、それはひとりだけスーツをもっていない人がいたためとのこと。
●●班と名前がついているので何かと思えば指導した教官の名前とのこと。教官によって「課題」の与え方が異なるようだ。あるグループのプレゼンによれば、ある教官は「音声認識を使うこと」とだけ言ってあとは何もしなかったとのこと。
手のだしかたのレベルは様々だが、大きく
「問題発見」を学生に行わせたグループ
と
「問題は与え、問題解決を学生に行わせたグループ」
にわかれていたように思う。
先ほど述べた「音声認識を使うこと」だけが制約条件だったグループは「モテ声」を判別するプログラムを作っていた。人間にはモテる声というのがあるのではないか?そうした仮説を元にあれこれ試行錯誤してモテ声判別プログラムを作成する。
基調講演を行った明和電機の土佐社長の言葉を引用しよう。
「モテる、という人間の感性に挑む、破綻するに決まっている研究なのだが、そこに果敢に挑んだことを評価したい」
もう一グループはプレゼン中何度も「我々のプレゼンの目的は、聞いた人が太陽電池へのイメージを変えてくれることです。屋根に載っているものばかりが太陽電池ではない。太陽電池はもっと身近なものになりうるのです」
と繰り返していた。彼らは色素増感太陽電池に文字を埋め込んだ上で作成していた。彼らは審査員の投票で一位に輝いた。
問題発見、という点ではこの2グループが傑出していた。他のグループは基本的に
「先生から与えられた課題をがんばって解きました」
というものだった。こうしたプレゼンを聞いていると、その努力に感心しながらも「結局それをやることで何がしたかったの?」と聞きたくなる。彼らの答えとしては「PBLの単位がもらえました」ということなのかもしれないし、学生としてはそれで十分かもしれない。しかしプレゼンを聞いている方としては
「単位がとれたの。よかったね」
という感想しか持ち得ない。
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今回いろいろな企業から来た人が審査員として参加し、コメントをしていた。学部の3年生相手、ということで実に気を使ったコメントをしていたように思う。
しかし言わんとしていることは(学生たちに伝わったかどうかは別として)実に的確だった。覚えているものを列挙する。
・そもそもなぜこの課題に取り組んだか、という説明がない
・それを解決することでどんなすばらしい未来が広がるのか
・課題を解決した方法に新規性はあるのか
ここらへんは教官がどう指導したかに大きく依存している気がする。
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特に感心したのは明和電機 土佐社長のコメントだった。土佐氏自身、自分の作品をどう世の中に問うていくか、常に試行錯誤していることが講演から伺えた。
実は3年生の発表以外にも、1年生、2年生が各チームずつ発表した。それらは「がんばって作りました」というものだった。本来この4チームから明和電機賞が選ばれるはずだった。一チームは「出題する側から数学の問題を作る」という面白そうな課題をやっていたのだが、正直意味がさっぱりわからなかった。土佐社長も質問したが、回答は全く要領を得ない。「コミュニケーションがうまくいっていない」と土佐社長は質問をうちきった。
4チームの発表が終わったところで土佐社長が「これは課題を解いたということですか」と確認した。
さて、いよいよ明和電機賞の発表です、というとこで挙げられたのは、先程の「モテ声」だった。確かに「とりあえず電気回路作りました」という発表に甲乙つけて賞は挙げられんわな。
土佐氏は、懇親会まで残り、退出しなければならない時にこういった
「学生さんたちにアドバイス。プレゼンがくどい。3分で一端まとめて、そのあと細かい説明をしなさい。学会の発表だったらいいのかもしれないけど、学外の人もくるような場所ではそうしないと」
いや、この日で私は明和電機のファンになってしまいました。
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私がこれを受講する3年生だったらどうするかな、と思う。問題を与えられるチームに参加して、ちゃっちゃと本を読んで解決をまとめて、それについて発表しただろうなと思う。
しかし今や私は「ロボコンはくだらん」と考える「問題発見」指向のおじさんだ。
「こんな問題を発見し、それにこんな問題解決方法を提示した」
と胸をはれるような面白い発表がみたいな、、と野次馬としては思うわけだ。いや、学部3年にそこまで要求するのは無理、という意見もあろう。たしかに多くのチームが強調していた通り、知識も経験も0からのスタートだとは思う。しかし堂々と失敗できるチャンスというものはそう多くはない。知識も経験も0でもこんな解法もありますよ、というのを見せてもらえれば感動するんだけどなあ。
2012-01-23 08:22
というわけでシンポジウム「未来を探検する知のバトンリレー」(第1回)「人類の未来」 に前半だけ参加したのだ。
なぜ参加しようかと思ったかといえば、ウメサオタダオ展の関連イベントだからだ。何かウメサオ氏について面白い話が聞けるかと思ったのだが、前半ではそうした話はでてこなかった。
イベントでは3人が次々と語る。年代を分けて、第一走者、第二走者、第三走者なのだそうな。私は年寄りなので、「年代なんてものは馬鹿馬鹿しい」と思っているし、この分け方にも「?」と思った。しかし終わってみて気がついたことだが、確かにこの3人の視点には差異があった。(それが年齢による物だとは思わないけどね)それについては後で書く。
さて、まず第三走者、佐藤慧 氏が語り始める。
話を聞いている間考えていたのは「何故この人の話はこんなに退屈なんだろう」ということだった。駅前でギターを抱えて歌っている人の歌を延々聞かされているような気がしてくる。
何故だろう?使われている写真は美しい。語られるエピソードも気持ちのこもったものだ。なのに何故退屈なのか?
そもそも佐藤氏がなぜ現在の職業(当日渡されたパンフレットではフォトジャーナリストとなっていたがサイトを見ると「フィールドエディター/ジャーナリスト」となっている)になったかといえば
「音楽を志していたが、ある日音楽に込める物が何もないことにきがついた」
からだそうな。それを聞いた瞬間ニコラウス・アーノンクールのこの言葉が頭をよぎる。
作曲家の体験が音楽に直接反映して、自伝のようになってはいけません。
それに全くあてはまらないのがモーツァルトです。
例えば彼が10歳の時に書いた作品には人間に与えられた全ての感情が表現されています。
10歳の少年が書いたとはとても信じられません。10歳という若さで感情の幅を感じ取り
それを音楽で自由に表現できたのです。
確かにモーツァルトの音楽には絶対的な情熱や感受性が潜んでいます。
ただしそれらは彼の個人的な経験とは無関係なのです。
ニコラウス・アーノンクール NHK音楽祭 レクイエムでのインタビュー
さて、次は松沢哲郎先生(京都大学霊長類研究所所長)である。覚えている事を箇条書きしよう。
・チンパンジーの瞬間的な認識能力は凄い。1−10の数字がランダムに画面上に表示されるのだが、それを0.5秒みただけで順番にタッチする事ができる。
・その種族を知るためには、その種族と近いが異なるものを調べる。たとえば外国にいくと、日本のことがよくわかるように。そうした観点から、チンパンジーと近いボボという種族に注目している。チンパンジーとボボの距離は、人間とネアンデルタールの距離くらい。
チンパンジーは知能が発達しているが、凶暴。ボボは道具を使ったりはしないが、とても平和な種族。
・最後にでてきた東北の震災と、ブータン国王の話は興味深いのだがつながりがよくわからなかった。
というわけで話は第一走者の村上陽一郎氏へ。
記憶に残っていることを書いてみる。かつて比較文化論というのはいわば「文化の優劣」を論じるものだったが、そもそも文化に優劣なんぞない。異なる文化があるだけ、ということではないのか。
(技術は進歩ということが言えるのだが)
他の文化について調べようと思えば、今の自分を一旦脇においておいて、それで他の文化について学ぶ必要がある。こうしたプロセスを経ることにより結局「自分とは何か」がわかる。
-------
「走者」の番号が減るに従って明確に意識されているのは「メタな視点」だ。それをやることによって結局何が解るのか。そうして最後に村上氏がたどり着いたのが「自分を一旦捨てることによって自分の事が解る」という結論だった。
そしてそれは「駅前で自分の感情を載せた音楽をかき鳴らしている」佐藤氏の話が極端に退屈(私にとって)である理由にもつながっている。彼は自分の歌っているが、それが聞き取り手にからどう見えるか、という点にまで考えが及んでいないように思う。そう考えれば、このイベントが世代を区切ったことにも意味があったのだろう。
---
しかしこの「世代」という言葉には注意が必要だ。じゃあここで第三走者とされている佐藤氏が歳を重ねると、メタな視点を得るようになるか?と言われればそれについては疑問符をつけたい。
僕はまだまだ経験も知識も浅く何かを語れるような人間ではないが、
偉大な先人と場を共有出来たことで、未来を創造する力を頂いた気がする。
分野も経験も違う3人が結局のところ「愛」というもの
(村上先生は「共感力」という言葉にしましたがw)
を考え続けているということに人間の可能性を感じる。
知のバトンリレー|佐藤慧 -世界に魅せられて- から引用
結局のところ「愛」ですか。そうですか。
2012-01-20 06:37
今日の話は全くの雑談。
私はアメリカ合衆国に2年10ヶ月滞在してたことがある。正確には2年と10ヶ月だ。
それで私が「アメリカに住んでいた」というつもりもない。私はStanfordとDetroitにいた。そしてStanfordとDetroitをもって「アメリカ」ということはできない。
なぜそんなことを言い出したかといえば、この記事を読んだから。
人口10万人あたりの殺人件数から割り出された世界で最も危険な都市トップ10が発表になった。結果は予想通り、麻薬抗争の耐えないメキシコが10のうち5つを占め、残りはすべて中南米となっている。トップ50で見てみると、メキシコは12都市、ブラジルが14都市、コロンビアが5都市、アメリカ合衆国が4都市となっており、トップ50のほとんどがアメリカ南北大陸にあるという恐ろしい結果となった。
via: 2012年版、世界の危険な都市トップ10:カラパイア
こうした情報をよむときには注意せねばならん。そもそもソマリアではだれが殺人件数をカウントするのだろう、とかね。
しかしトップ50のうちに、アメリカ合衆国4都市はいっている、というのには正直驚かされる。33位以下に南アフリカ、44位にイラクがはいっているが、他は殆ど南北アメリカ。欧州、東アジアは顔をだしていない。
ちなみにアメリカの4都市とは
ニューオリンズ、デトロイト、セントルイス、ボルティモア
これをどう解釈すればいいのだろうか。そもそもメキシコでなぜここまで麻薬戦争が激しくなっているのだろうか。それはアメリカと隣接していることと関係があるのだろうか。
いまぼんやりと思っているのは
「アメリカ合衆国は世界一陰影の差が激しい国ではないか」
ということ。iPhoneを作ったのもアメリカ。殺人が頻発する都市を抱えるのもアメリカ。
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というわけで雑談ついでにこの記事。
ところが、1982年 、大きな転機がやってくる。
ベルギー ・アントワープ の観光 局で働いていたヤン・コルテ ールという男性 が、運命 を変えた。
日本人 観光客 から 『フランダースの犬 』という物語 の存在 を聞いたことが発端である 。
via: フランダースの犬にまつわる救われない話
フランダースの犬は実質的に「日本産だった!」というおはなし。私はアントワープに言ったとき、この「ヤン・コールテン」(私にしてくれたカタカナのサインはそう記憶しているのだが、間違いかもしれない)に会っている。日本語で
「フランダースの犬、しってますか?」
と言った。
男の浮気 は「名前 をつけて保存」だが、女の浮気 は「上書きして保存」
via: フランダースの犬にまつわる救われない話
2012-01-19 06:48
というわけでいきなり動画。
VIDEO
ソニーが「新しいエンターテインメント」こと DOT SWITCH のティーザー動画を公開しました。とりあえずは続きに掲載した動画 (30秒) からごらんください。内容は Xperia らしきスマートフォンの画面に表示された大きな円 (dot?) スイッチを押すと、レコードプレーヤーやテレビが点き、紙吹雪が舞い、ロボットアームが動き出してフタを開けるとそこには...... といったもの。口上は、
世の中は、マルチディスプレイになってゆく。インタラクティブになってゆく。その楽しさを体験できるプラットフォーム。
あなたがスイッチを押すだけで、PCが、テレビが、世の中が変わっていく。
あなたとマルチスクリーンをつなぐ、新しいエンターテインメントが誕生します。
via: 動画:ソニー、「新エンターテインメント」DOT Switchを予告 -- Engadget Japanese
ふーん。これほどワクワクしない動画も珍しい。ぱーん、と飛び散る紙吹雪が寒々しい。
じゃあどうすればいいのか。
案1)物を一切隠し、人を描写する。そういえばPS3が出たときにも、PS3のスライドショーで「ををを」とか言っている人を写したCMがありましたねえ。。
「それ」が登場することによって人の生活が変わらないければ、そもそも発表する意味がない。
案2)Teaserなんだから、もっと「マルチスクリーンをつなぐ」ところを誇張して作るというものありかもしれん。ただそれだけ安っぽいSF映画になりかねんので(映画の世界では全てのコンピュータは既に繋がっていることになっている)難しいか。
結果はどうであれ、まだRolly のTeaserのほうが「ワクワク感」があったぞ。
Sony launches Rolly teaser campaign -- makes girls chicken dance
via: Sony launches Rolly teaser campaign -- makes girls chicken dance -- Engadget
今のソニーにワクワクする製品なんか期待していないから、せめてTeaserくらいは「おっ?」と思わせるようなものを作ってもらえないだろうか。
2012-01-18 06:40
デジタルスケジュール帳の便利さとアナログ手帳の可愛さを兼ねたオリジナルダイアリーをプリインストール。自分らしく可愛くカスタマイズできるので、女子力UP間違いなしです。
via: docomo with series ARROWS Kiss F-03D : 特長 | 製品 | NTTドコモ
別にdocomoが悪いというつもりはない(本当は少しあるけれど)普通はこうだ、と言いたいのだ。Appleが異常なのだ。よく使われる図だけど再掲しておく。
誰でもAppleのほうが正しいことはわかる。量産効果もでるし、価格も下げられる。
しかしこれを可能にしている「デザイン」「仕様設計」の力には驚嘆させられる。
2012-01-17 07:27
さて、誰にも理解してもらえなかったようだが、このような事 を人前で主張した私としてはこの記事を黙って見過ごすわけにはいかない。
sweeping generalizations」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか? これは「一般的すぎてほとんど意味をなさない論理」という意味です。これと同じように、広すぎる対象範囲から一つの結論が出ているものは間違い だと言っていいでしょう。ステレオタイプはこういうところから生まれるのです。インターネットが私たちを愚かにするという主張は、ある特定の場面では正しいのかもしれませんが、一般論とすることは間違いです。今のところ、これを裏付けるようなリサーチは発表されていません。
この迷信を私たちが簡単に信じてしまう理由は、インターネットによって人が他力本願になりつつ あるからです。どこへ行けばいいのかはGPSデバイスが教えてくれる し、なんでもググればいいので、あまり記憶もしなくなりました。しかし、これが「私たちは愚かになった」につながるとは言えません。心理学者のDaniel Wagner氏によると、私たちは「transactive memory(交換記憶)」に頼るようになったのだそうです。交換記憶は実は便利なもので、全体を記憶するのではなく、名前やキーワードだけを覚えるようにできているので、小さい容量にたくさんの情報を保存できます。あとで全貌を知りたかったら、そのキーワードで検索をかければいいわけです。
このように、私たちは全体を思い出せないことで、自分がインターネットのせいで愚かになったと思い込んでしまっています。インターネットのアクセスがない状況に陥ると、私たちはバラバラの情報のかけらをつなげることができず、途方に暮れてしまうわけです。しかし、科学的な根拠は現段階ではないのですから、「インターネットによって愚かになる」というのはカルチャーとして言われているだけだということになります。
via: 科学的に偽りであることが証明された脳に関する9つの迷信 : ライフハッカー[日本版]
まず「科学的な根拠が現段階ではない」ことと、「科学的に偽りであることが証明された」は等価ではない。例えば「ガニメデに生命が存在する」根拠は現時点では存在しない。しかしそれは「ガンメデに生命が存在することが科学的に誤りであることが証明された」とは言えない。
この記事で主張していることは「インターネットの利用で、一般的に言って人間が馬鹿になった、という主張を裏付ける根拠はない」ということだけである。そもそも「一般的に人間が馬鹿になる」などという主張は、何によってもただしくない。私がその昔DetroitのRadioで聞いたとおり
"Generalization is always wrong"
なのだ。
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さて、私はチンピラサラリーマンなので、科学的に証明されていない命題についてもう少し考えてみよう。
GoogleとEvernoteにたよりきった人間の頭はザルと化しているのではなかろうか、と私は主張した。頭の中にはGoogleとEvernoteへのポインタだけが存在しており、なんでも「検索すればわかる」
と考えている状態だ。
私の発表中、チャットでこのような指摘があったと聴く。
「ザルじゃだめですか」
私は自信を持ってそれに応える。(何の根拠もなしに)
「ダメです。あなたの頭がザルになろうが私には何の関係もないが、私の頭がザルになっている状態は許容できない」
なぜそう考えるか?
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問題は「検索すればわかる」というのは問題があり、それに対する答えが既にどこか(インターネットもしくはEvernoteの中に)存在している場合には機能するが、そうでない場合には機能しないからだ。
いや、もちろんこれはものすごく便利なのだよ。iPhoneアプリにGPS機能をつけたいと思う。例えば20年前だったらどうしただろう。まずiPhoneアプリ構築に関する本を何冊か購入し、そこからコードを探して「写経」する。しかしそれは古いバージョンに基づいたものだったらしくエラーが生じる。ええい、どうやればいいのだ、と途方にくれて一日が終わる。
しかし今やGoogle先生にお伺いを立てればものの数分でこれに対する「最新かつ正しい情報」を得ることができる。これは無茶苦茶便利だ。
しかしながら
問題はこうした「情報の検索方法」に依存している限り、問題に対する新し解法、あるいは問題そのものを見つけることはできない、ということにある。多くの人が経験していることと思うが、最良のアイディアは
「仕事に疲れ、もう今日は帰ろうと思い、電車に乗った(あるいは車に乗った)瞬間」に訪れる事が多い。つまりその時点では、頭に必要な情報が存在している必要があるのだ。
つまり
「新しい方法、問題」について考えようと思えば、材料は頭の中に存在していなければならない。それらが自分でも説明できないような結びつきを持つ瞬間に「新しい方法、問題」を思いつくと私は考えているのだけどどうですかね。
こうした点において、情報が脳の外部に存在し、それを検索している状態と、頭の中に情報が存在し、それが得体も知れぬ結びつきを持っている状態は大きく違う、と主張したい。そして私は
「ググればわかる問題」
だけを解いて一生を終えるつもりはない。再度引用するが
インターネットのアクセスがない状況に陥ると、私たちはバラバラの情報のかけらをつなげることができず、途方に暮れてしまうわけです。
via: 科学的に偽りであることが証明された脳に関する9つの迷信 : ライフハッカー[日本版]
バラバラの情報のカケラを前に呆然と佇んで、しかも
「私は愚かではない」
と主張するのは私が望む姿ではない。,,,というかこの文書書いた人(あるいは訳した人か?)ってこれ書いていて自分でも変だと思わなかったのだろうかね。
2012-01-16 07:28
というわけで年をとるごとに「これが重要なことではないか」と思う自尊心について。
自尊心とは、人間が身にまとう最も尊い衣装であり、何物にもまして精神を奮い立たせる。「汝自身を敬え」とはピタゴラスが弟子に命じた言葉だが、自尊心という気高い理念に支えられた人間は確かに、決して官能に溺れて身を汚したり、非口な考えで心を汚したりはしない。日常生活のすみずみまで自尊心が行き渡れば、それは清潔や沈着冷静、貞操、道義心などあらゆる美徳の基礎となろう。
自助論 p195
古い本だから、今読むと「こう賛美ばかりではいかがなものか」と斜めに構えたくもなるのだが、この「自尊心」というのは人間世界においてかなり重要な位置を占めているのではないかと最近考えている。
でも、今はそうではない。人々は「あなたには無限の可能性がある」と持ち上げられる一方で、社会的にはさっぱり評価されない。現在のような劣悪な雇用環境の下で、自己評価が高い若者たちは必要以上に苦しんでいます。
この高すぎる自己評価と低すぎる外部評価の落差を埋めるために、多くの人々が呪いの言葉に手を出すようになる。他人が傷つくさまや他人の評価が下がるのを見ることで、溜飲を下げる。でも、一度その方向に踏み出すと、もう止まることができなくなります。
'08年に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大の場合がその典型です。加藤はある日何かを「呪った」のだろうと僕は思います。呪いの標的となったのは、具体的な誰かや何かではなく、彼が「本当なら自分が所有しているべきもの」を不当に奪っている「誰か」です。彼の嫉妬や羨望が身体を離脱して「呪い」となったとき、それは現実に人を殺せる力を持ちました。
繰り返しますが、攻撃性は現実の身体に根拠を持つ限り、それほど暴力的にはなれません。攻撃性が破壊的暴力に転化するのは、それが現実の身体を離脱して幻想のレベルに達したときです。
だから、呪いを制御するには、生身の、具体的な生活者としての「正味の自分」のうちに踏みとどまることが必要です。妄想的に亢進した自己評価に身を預けることを自制して、あくまで「あまりぱっとしない正味の自分」を主体の根拠として維持し続ける。それこそが、呪いの時代の生き延び方なのです。
正味の自分とは、弱さや愚かさ、邪悪さを含めて「このようなもの」でしかない自分のこと。その自分を受け容れ、承認し、愛する。つまり自分を「祝福」する。それしか呪いを解く方法はありません。
via: 内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
加藤氏は、自尊心を取り戻す方法として、何かを呪った。そしてそれを「倒す」ことで自尊心を取り戻そうとしたのだと思う。
福島原発の事故以来、たくさんの「正義の味方」が現れた。私の意見ではその90%は「自尊心を満足させるため、"敵"である東電、そして誰かを処刑する」ことを欲した人たちだ。
G.M.ワインバーグの本にも「怒るとは、つまるところ低い自尊心の表れである」とかなんとか書いてあったような気がする。
じゃあどうすればいいのか。内田氏の意見では
正味の自分とは、弱さや愚かさ、邪悪さを含めて「このようなもの」でしかない自分のこと。その自分を受け容れ、承認し、愛する。つまり自分を「祝福」する。それしか呪いを解く方法はありません。
先に述べたように、呪いは「記号化の過剰」です。それを解除するための祝福は、記号化の逆で、いわば「具体的なものの写生」です。世界を単純な記号に還元するのではなく、複雑なそのありようをただ延々と写生し、記述してゆく。「山が高く、谷が深く、森は緑で、せせらぎが流れ、鳥が鳴き・・・・・・」というふうにエンドレスで記述すること、それが祝福です。
人間についても同じです。今自分の目の前にいる人について、言葉を尽くして写し取り、記述する。祝福とはそういうことです。
そうやってすぐにわかるのは、百万語を費やしてもただ一人の人間さえ記述しきれないということです。記号で切り取るには、世界はあまりに広く、人間はあまりに深い。その厳粛な事実の前に黙って立ち尽くすこと、それが祝福の作法だと僕は思っています。
via: 内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
この世の中というものは、複雑で捉えきることができない。そした事実を受け止めることが呪いを解く事だ、と彼は主張する。
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これを読んでいて思ったのだが、「宗教」というのは底の浅い「記号化」のバーゲーンセールのようなものではなかろうか。
「異教徒」
という単純な記号化を行うだけで、誰でも批判したり、危害を与えることができる。そしてそれは賞賛される行為となるのだ。
「宗教」の恐ろしさは、本来「複雑で簡単な記号化が不可能なものである」この世の中、その成り立ちについて「明確な答え」を与えてしまうことにある。
宗教的説明は人生の根本的な意味を明確にしてくれる。我々はなぜここにおり(どこかに行くとすれば)どこに行くのかを」つまり、「なぜ存在しているのか」という永遠の問に対する答えを与えてくれるのである。
経営の未来ーP217
困ったことに、神様というのは、仮に存在していても代理人を通じてしか話しをしてくれない。そしてその代理人はたくさんいるのだ。「なぜ存在しているのか」という永遠の問に対する答えは、代理人の数だけ存在する。
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ここで少し元の問に戻る。世の中は複雑で捉えどころのないものだ、という話を書いたが、世の中の進歩は、そうした認識を「持たない」人たちによって進められてきたという気もする。
「進歩」だの「革新」だの言葉は勇ましいが、それが80%意味するところは
「多くの人に迷惑を掛けること」
だ。Amazonで本を買うのはとても便利だから私はよく利用する。しかしそのため何件の個人経営の書店が倒産したのだろう。AppleがiPhoneを作ったことによって携帯電話というビジネスは全く違うものになった。そしてそれはどれだけ多くの会社に「迷惑をかけた」ことだろう。そうした変革をもたらした人たちが、「世の中の捉えようのない複雑さ」をどれだけ認識していたかわからないが、少なくとも彼らはその前で立ち尽くしたりはしなかった。
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話は宗教に戻る。宗教は記号の「バーゲンセール」と書いたが、実のところ人間はなんらかの記号を求めることで、心の安らぎをえるものなのかもしれん。
そうやってすぐにわかるのは、百万語を費やしてもただ一人の人間さえ記述しきれないということです。記号で切り取るには、世界はあまりに広く、人間はあまりに深い。その厳粛な事実の前に黙って立ち尽くすこと、それが祝福の作法だと僕は思っています。
via: 内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
個人的には内田氏の意見に賛成だが、「厳粛な事実の前に立ち尽くす」ことに耐えられない人のほうが多いような気もする。
であれば、間違った記号にとりつかれるよりは、「穏当な記号」を広めたほうが世の中の役に立つのではないか。立派な宗教人というのはこうした認識をどこか持っているような気がする。少なくとも映画「天使と悪魔」の終わりのほうで、ローマ教皇はそのようなセリフを言っていたような記憶がある。
2012-01-14 04:10
批評することと、実際に行うことは全く別の事象であり、両者にはほとんど相関関係はない。
この事実を私たちはあまりにもしばしば忘れてしまう。元カーネギー・メロン大学の教授、ランディ・パウシュは最終講義でこう言った。
Syl said, it took me a long time but I've finally figured it out. When it comes to men that are romantically interested in you, it's really simple. Just ignore everything they say and only pay attention to what they do
Sylは言った。ずいぶん時間がかかったけど、とうとうわかったの。男性があなたに気があるそぶりを見せた場合、「言う事」は全て無視して、彼が「何をするか」だけに気をつけなさい。
これも「言う事」(つまり批評すること)と実際の行動の間には何の関係もないことを示している一例と、、いえんことはないか。
さて、先日こんな文章を目にした。
今、日本の家電メーカーに一番必要なものは、「どんなライフスタイルを人々に提供したいか」というビジョンとパッション(=熱い思い)だと思う。どのOSを使うのかとか、何メガピクセルのカメラを搭載するとかは、何らかの目的を達成するための「道具」に過ぎない。そして、売り上げとか利益とかマーケットシェアは「結果」にしか過ぎない。
「はっきりとした目的意識を持った、魂のこもったもの作り」が必要とされているのだ。
via: Life is beautiful: 今、日本の家電メーカーに一番必要なもの
この主張には全面的に賛成する。問題はこれが「批評家」としての言葉であり、この文章を書いた人が実際に「行っている」ことと全然関連性がないことだ。では具体例を観よう。
Instagramとコンセプトは似ていたが、「魂のこもりかた」が天と地ほどの差異があったPhotoshare というサービスを誰か覚えているだろうか?前掲のように「魂がこもった物作り」を主張している中島氏が自ら作り、リリースしたサービスである。ではそのサービスがどのような評価を得ているか。
via: Big Canvas PhotoShare reviews -- AppComments.com
批評家としての中島氏に期待する気持ちは理解できないでもないが、「実行家」としての中島氏に今だ幻想を抱いている人が多いのには正直驚く。
サービスを継続する気がないのなら、素直に「すいません」とサービスを閉じるぐらいのことができないものかねえ。それすらもやらない人の話しを聴くために今だ多くの人が集まろう としているようだ。
「幻がなければ民は堕落する 」
とは聖書の言葉だ。考えてみれば世界中にあまた存在する「神様」も何もしてくれないけど、代理人を通じて「批評」「お布施の収集」だけはしてくれる存在だったな。
2012-01-12 07:44
こういう短絡的な批判は好みではないのだが、これを見ているとそうも言いたくなる。
有機EL搭載のタブレット端末は画質が良く、薄くて軽いのが特長で、実際に発売する際には、重さ350グラム以下、厚さ8ミリ以下を目指す。ほかに液晶画面の13.3型、5.1型の試作機も公表。発売中の10.1型と合わせて品ぞろえを増やす。担当者は「タブレット市場がどの方向に発展しても良いように商品の幅を広げる」と狙いを語った。
via: asahi.com(朝日新聞社):東芝、年内にも有機ELタブレット 350グラム目標 - ビジネス・経済
いや、、、あの、、「タブレットという製品が最適な使い方はこれだ!」というのはないんですか?使い方はどこかが発明しくれるんですか。東芝はどこかの製造下請けで食べていけると思っているんですか?
それでは、なぜこの記事を読んでいるのだろうか?まずは、結果が出ていないという事実を受け入れよう。そして、結果が出ていないのはプロセスを間違えているからだ。
当然のことだが、プロセスが正しければ結果は出るし間違っていれば結果は出ない。もし、今、望むだけの結果が出ていないとすれば、なぜ、プロセスを変えないのだろうか?
via: ビジネスを失敗にみちびく残酷な3つの真実〜誰も教えてくれないホントの話〜 | バズ部|ソーシャルマーケティング
ということは、東芝は今結構もうかっており、それでいいと思っているのかもしれないなあ。
あるいはこの記事が「書かれる」ということは、殆どの人は「プロセスが間違っていることを認められない」からかもしれない。
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3年9ヶ月に及ぶ太平洋戦争において、帝国陸軍は最初の半年だけ勝利してあとの3年は負け続けだった。(中国での局所的な勝利を除く)
興味深いのは、その3年間の間になんら戦術や戦略に変化がなかったことである。それについては、別文章に 書いているがこの東芝の「戦略」を見るとき、帝国陸軍の伝統は脈々と受け継がれているのではないか、と思わざるをえない。
そして親愛なるソニーの「ユーザ体験」も相変わらずのようだ。
あと、これはセットアップ終了後、つまりすべてのユーザーが、いつも見る画面なのですが、ロゴ表示のあとの「ご注意:取扱説明書に書かれている健康と安全についての注意事項をよく読んで‥‥」の表示は、必要なのでしょうか。PSVitaは人間に害悪を与える機器であるかのようです。
百歩譲って、どうしてもこの類の警告文が必要だとしたら、黒背景に白文字、しかも起動時ではなく、ウェルカムメッセージの後に、さりげなく言うような演出にならないものなのか。
米国、訴訟社会で生まれたあのWindowsでさえ「ようこそ」と言ってくれるのに、エンタテインメント機のPSVitaの「ご注意」は、いかにも無粋です。
via: PSVita、買っていい人、買ってはいけない人・・平林久和「ゲームの未来を語る」第27回 / GameBusiness.jp
去年ソニーの「中の人」と話す機会が何度かあった。話しているうちに、彼らはこうした問題を認識できる程優秀だが、それを治すことはできないのだな、と思った。(何故かとは問わないでね。感じだから)
あと最後に一点。
13.3型ディスプレーのVAIOプロトタイプ。画面を閉じるとフルフラットになる設計で、既存のVAIO SBを継承したものか
via: ASCII.jp:新Xperiaに薄型VAIOノート 盛りだくさんのソニーブース|International CES 2012特集
どうみてもMac Book Airです。本当にありがとうございました。というかこれじゃソーテックのこれと同じじゃないか。
【e-oneとiMac(正面)】
【e-oneとiMac(横)】
via: アップル、iMacのデザイン模倣でソーテックを提訴。ソーテックは抗戦の構え
かなわなくてもいいから、せめて「意地」でも見せてもらえないものだろうか。
2012-01-11 07:24
というわけでいきなり引用。
今日では、活字文化の重要性がいささか誇張されすぎているきらいがある。
たとえばわれわれは、「図書館や教育施設がたくさんあるから、人間は大きな進歩を遂げてきた」と考えがちだ。だが、そのような施設がむしろ高い自己修養の妨げとなる場合さえある。金持ちが必ずしも寛大ではないのと同様、立派な図書館があり、それを自由に利用できるからといって、それで学識が高まるわけではない。立派な施設の有無に関わらず、先達と同じように注意深くものごとを観察し、ねばり強く努力していく意外に、知恵と理解力を獲得する道はない。
単なる知識の所有は、知恵や理解力の体得とはまったくの別物だ。知恵や理解力は、読書よりもはるかに高度な訓練を通じてのみ得られる。一方、読書から知識を吸収するのは、他人の思想をうのみにするようなもので、自分の考えを積極的に発展させようとする姿勢とは大違いだ。
つまりいくら万巻の書物を読もうと、それは酒をちびちび飲むような知的なたしなみにすぎない。その時は快適な酔い心地を味わえるものの、少しも心の滋養にはならないし、人格を高める役にも立たない。
自助論 p192-193
この文章が出版されたのは、1858年。日本で出版されたのは「学問のすすめ」と同じ頃だ。
この「活字文化」「書物」をインターネットにおきかえれば、昨今聞こえてくる「インターネット有害論」と実に多くの部分が重なる。かくのとおり新しいえメディアが登場するたびに「人間が馬鹿になる」という議論は繰り返されてきたので、問題はない。QED
という主張に私は与しない。ここで行われている議論を抽象化すれば
「人間に知識、知恵を得たと錯覚させるようなものは有害である」
ということになる。そして書物とインターネットには両方等しくそのような性質がある、としてもその程度に差がある。
書物を読むためにはある程度集中し、かつ読書という行為を行わなければならない。インターネット(ここでは都合上Google + Evernoteとうことにするが)はそうした集中も努力も必要ない。さらには、頭の中に知識を吸収してもいないのに「何でも知っている」という錯覚を人間に与える。このような差異を無視して
「何度も言われてきたことだから大丈夫」
とは私には思えない。
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とわめきちらしていると
「書を捨てよ町へ出よう」
ですか。とある人に言われた。をを、確かにそうだ。そう思ってGoogle先生にお伺いをたててみれば、こんな文章に出くわす。
この本の終わりのほうでタイトルの意味が明かされるところがある。大学に入って病気になり、療養生活のあと快方に向かった頃、寺山は生きる「実感」をもとめて読書ざんまいの生活から遠ざかろうと思いはじめた。そしてそこには、それまでの豊富な読書体験から得たモデルがあった。それはアンドレ・ジッドの紀行的詩文集『地の糧』で、「書を捨てよ、町へ出よう」とは、そこに出てくる言葉なのである。
しかし「書を捨てた」わりに、まさにその本の中に、古今の思想書や文学からの引用がふんだんに盛り込まれている。どうやら彼は「町へ出る」、つまり「生」の実感を求めて体験へ向かい始めた後でも、引き続き猛烈な読書家であり続けたようなのだ。「読書無用論」の擁護者を期待してこの本を開いた人は、裏切られた思いがするに違いない。
ところで体験を通じて生の実感をもとめ、こうした「書斎の知識」を去って巷に出て行くという発想自体は、ジッドに限らずそれほど新しいものではない。
たとえばゲーテの『ファウスト』である。この劇の本筋は、中世以来の大学で主要な四学問とされた法学・哲学・医学・神学のすべてに通暁した大博士ファウストが、昔よりちっとも利口になっていないことに絶望するところから始まる。彼の場合もそうした書斎の知識を去って、現実の体験、つまり「行為」の世界に、悪魔メフィストを従えて飛び込んでいくことになる。
ゲーテ、ジッド、寺山と、一見したところ彼らはみな、「反読書」「反書物」的なスローガンの持ち主、読書無用論の弁護者と思われかねない。事実はどうやらまったく逆で、実はいずれ劣らぬ大変な読書家のようなのだ。考えてみれば、言語によって創造的な仕事をなそうとする人々がそうでないと考える方が、むしろ不自然であろう。
したがって寺山の挑発的なタイトルも、ファウストのセリフも、制度化された知の体系を超え出て、生のリアリティーに根ざした認識や創造を目指す心構えを、文学的修辞を使って述べたものと見るべきだろう。そして、そのような認識や創造を成功させるためには、先人や他人の知識と知恵を前もって学んでおくことは不可欠の前提となろう。
結論として、「書を捨てる」のもいいが、その前に「書を読む」必要がある。あるいは「町へ出る」のもいいが、でたあとでも「書を読み続ける」必要が大いにある。寺山もジッドもゲーテも、実はその代表的実例を提供しているのではないだろうか。
via: 『書を捨てよ、町へ出よう』というタイトルの本がある
つまるところは「知識を得ること。それを現実世界に活かすこと」その両方を行わなければならん、という至極当たり前の話になる。しかし至極当たり前の話を忘れることも普遍的に行われていることである。
忘れて何をするかといえば、書を読み、あるいはインターネット上の情報に「触れる」ことで「世の中のことについてはだいたいわかった」と閉じこもる態度である。これも普遍的に起こることだ。物理学でノーベル賞をとった人(名前忘れた)がこうTVで言っていたのを覚えている。
「理論物理学者たるもの、行ってみなくてもノーベル賞の授賞式がどんなものかはわかる」
実際にこのおっさんは行ってみて感動したようだが。
このような態度がなぜ起こるかといえば、それは自尊心の問題だと思うのだよね。この「自尊心」なるものを正しく持つことは結構重要なのではないかと思う今日この頃なのだが、そのことについては以下次号。
2012-01-10 07:46
ちなみに私は今はマネージャーではないよ。昨日こんな記事を見つけた。
結果を出せるマネージャーは、ある意味で、結果を出せるプレイヤーとは正反対です。マネージャーは、自分の知識、能力、経験に確信を持つというよりは、部下の知識、経験、能力、スキルに興味を持ってほしい。「この人にはどんな知識、経験、スキルがあって、この人は何を求めていて、その求めていることを会社の業績にどんなふうにして生かせるだろうか」と好奇心を持ってほしいのです。
プレイヤーが「自分は正しい」 という確信を持つのに対して、マネージャーは「この人は正しい」 という確信を持ってほしいですね。「まだヘンな企画書を書いたりするけれど、この人の持ち味はきっとあって、これが何かに生かせるに違いない。どうやって生かせるんだろう。答えはこの人の中にある」という確信を持ってほしい。
via: 今さら聞けないマネジメント&コーチングの基本:第2回 プレイヤーとマネージャーの違い (1/5) - ITmedia Biz.ID
肩書きはどうであれ、自分がマネージャー的ポジションにいるとき、このことは何度も実感させられた。というか
「こいつは使い道がない」
などと思っていた相手が、短期間で見違えるような成果を出すことを体感した。それは自分のおかげなどではなく、多くの場合私の下を離れてからの成果だ。つまり私はその人の可能性を引き出すどころか殺していたわけだ。
これは次の文章にも通じる内容だ。
かつてネトゲ で数十人を率いていた という妻「相手が欲していることは何で、どうやったらモチベーションを高く持ってくれるかを必死に考え抜くの。そうしたら勝手にみんなが動いてくれる。それがマネジメントだよ 。やってないから帰りが遅いんじゃないの?」...代わりに会社に行ってもらえませんか?
via: かつてネトゲで数十人を率いた妻の「マネジメント論」 - chocontaの日記
などと何度か痛い目にあい、かつこうした文章を目にしてからは「この人は何を欲しているのだろう」という事を考えることが多くなった。「もしドラ」はかなり異様な内容とのことだが、マネージャーを「高校野球のマネージャー」とした観点は秀逸である。石原莞爾が看破した通り
「兵は神様。将校は神主」
神様たる兵に気持よく働いていもらえるよう、踊ったり祝詞をあげるのが将校の役割であると思う。しかしそれは容易ではない。私の祖父が言ったとおり
「人間ほど変わったものはない」
のだ。何を欲していて、何がその人のモチベーションを高めるか見抜くのは容易なことではない。
ーーーー
さて、そろそろ新年度の足音が聞こえてくる。大企業の方には
「子会社への片道飛行」
が迫ってきている人も多かろう。でもってそういう人というのは子会社に赴任したとたん例外なく
「子会社の人間は皆どうしようもない馬鹿である」
と考える。そうして親会社に残ったものと酒を飲み、自分がどんな馬鹿に囲まれているかを愚痴るのだ。
そうやって余生を送るのもいいが、ここで引用した言葉を少し考えてみると「陰鬱な子会社生活」が少しは創造的なものに変わるかもしれんよ。そもそもそんな立場の人がここを読んでいるわけはどないのだけど。
ーーーー
などと綺麗事を言っても、「どうにもならない場合」も存在する。こうしたビジネス文書を読むとき、そうした事実は触れられないことが多いが、私は
「どんな人間も誠意を持って話せば分かってもらえる」
と思うほど若くはない。人間の中に存在しうる闇は、想像よりずっと深いのだ。そうした場合にはそもそもその人間を採用してしまったことについて何が間違っていたのかよく考える必要があると思う。ちなみにそうした「反省」を見る機会が少ないことにも少し驚いているのだが。
2012-01-05 07:33
さて、松下幸之助が
「これからはデザインや」
といってから、かれこれ60年以上である。なのに私はこの言葉を少し「意外」の念とともに読んでいる。
3. 圧倒的にデザインを良くする
はてなのデザインを圧倒的に良くしていきたいと思っています。
今日本のインターネット業界は、エンジニアの争奪戦が熾烈を極めています。そんな中、なぜデザインなのか。
デザインがこれからとても重要になると思います。
今まではてなのサービスは、どちらかというと各サービスがバラバラに個別最適を繰り返してきました。機能は多ければ多いほど良いのだ、という価値観で新しい機能を加えてきました。エンジニアがシステムを開発し、デザインは後からくっつけるものでした。
しかし、人が接するのはデザインです。多くの人に接してもらうサービスにするために、デザインに真剣に取り組みたいと思います。誰もが「分かる」ように、シンプルなデザインを実現していく必要があります。
via: 2012年に向けて - jkondo's blog
この世の春を謳歌しているソーシャルゲームのおかげで、エンジニアの争奪戦が熾烈を極めているのだそうな。しかし確かに
「デザイナーの争奪戦が熾烈を極めている」
という話は聞かない。あれほどAppleの成功を目の当たりにしながらもだ。
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かつてデンソーの副社長に
「君はHow to makeの話をしている。What to makeを考えなくてはダメだ」
と繰り返し言われた。不思議なことに私はWhat to makeの話をしているつもりだったのだが、彼の理解は得られなかったようだ。では彼が言うところの「What to make」は何なのかを理解しようとずいぶん努力したが、諦めた。私には知恵が足りないのだと思う。
さて、というわけで「どうやってつくるか」よりもそもそも「何をつくるのか」が重要なこの頃である。前者だけがあって、後者がすっぱり抜け落ちた製品をよいしょしようと努力した跡の見えるメディア記事は多い。(例えばこれとか)
ソニーが作るAndroidタブレットはやはり普通じゃない。2画面折りたたみボディの"Sony Tablet"Pシリーズを開発者に分解してもらい、こだわりが詰まった内部構造に迫った。
via: 完全分解×開発秘話:常識破りの2画面タブレット「Sony Tablet P」を丸裸にする (1/4) - ITmedia +D PC USER
私が以前勤務していたUIE Japanにはデザイナーがいた。彼がいるのといないのとでどれほど商売の上で大きな差が出たかは、おそらく想像がつかないほどだと思う。彼がいるおかげで、UIE Japanは「小規模SI屋」ではなく「おもてなしを提案する企業」と主張しえたのである。(実態はまた別の話だが)
かくの通り、「デザイン」の重要性を示す事実には事欠かないのだが、未だに優秀なデザイナーの争奪戦が起こっている、という話は聞かない(多分起こってはいるのだろうが)
そもそも「デザイン」という言葉が悪いのではなかろうか。色使いがどうとか、絵を綺麗に書くとかそんなことを連想する人はおそらく多かろう。
この状況を改善するにはどうしたらいいだろうか?今考えているのは二つ。
1.デザインによりふさわしい言葉を当てる
2.「絵が書けない人」がデザイナーを名乗る。
まず1.だがここ数日「仕様設計」ではいかんのか、と考えていた。しかしどうも仕様設計というと、くだらない仕様書と結びついてしまうようだ。SI屋の概念では
「お客様から徹底的にヒアリングを行い..」
とかになってしまうのだろうな。
要件定義書は、顧客の要望をまとめたものです。ヒアリングをしながら開発側が作っていってあげるケースが多いですが、顧客が作る場合もあります。乱暴な言い方をすれば、できるかできないかはおいといて、とにかく顧客の「こうしてほしい、こういうのがほしい」をまとめたものです。
仕様書は、要件定義書に基づいて(他の情報や調査結果も使いますが)システムがどういう稼動環境下でどのような機能を具備するかを定義したものです。費用や時間、背反する要件などを詰めていって、結局、「こういうのを作ります」をまとめたものです。
via: 仕様書?設計書?要件定義書? | OKWave
というわけでやはり新語を作らなければならんだろう。では何だ、と言われると言葉に詰まるが「設計」という言葉が入っているべきではないかと思う。
というわけで2.も結構いいのでは、と思っている今日この頃だ。デッサンできないし、もちろん絵はかけません。でもデザイナーです、という人が増えると、少しはデザインという言葉に対する概念が変化するのではなかろうか。