というわけで、ポケモンをつかまえつつ水天宮駅からあるいて行ってきました。ヤマケンところの発表会というらしいのだが。
受付で名前を書くと、一人一人学生さんがついて案内をしてくれる。研究室の教授は「これはいいシステムだ」とFacebook上で書いていたが、残念ながら私のようなひねくれ者にはうまく働かない。後で聞いたのだがこの研究室は41名もいるのだな。その研究全部の説明を行うなど誰にもできはしない。「はいはい」と聞いて歩いてくれる人ならいいけど、わたしのような人間には聞きたいこと、コメントしたいことがたくさんあるのだ。教授が何を考えているのかは私にはわからない。彼らの観察能力とはこれくらい、ということなのかもしれない。
ワークショップのデザインでモチベーション3.0がどうのこうの、という展示がある。そもそもモチベーション3.0ってなんなのか?と聞くと学生さんは遠くまであるいて聞いてきてくれた。いや、自分の研究じゃないもので、というんでじゃああなたの研究をみせてください、とお願いする。
彼はバナナについてあれこれ試みを展示していた。話を聞いているうち
「ああ、俺だったらこうするがなあ」
という「惜しい」感が充満する。例えばこうだ。バナナの形に紐をぐるぐる巻きにすると、とても長くなることがわかりました。そうじゃなくてバナナの皮の繊維をほぐして実際につないでみるとかさ。長さに変換する考えはいいんだけど、なぜそこで関係ない紐を持ち出すのか。皮と身とタネを分離するのなら、内側から外側に逆に配置してみるとかさ。
研究室のメンバーに頼んで「バナナを持ってポーズ」とかいう写真が延々並んでいる。あのさあ、やるなら
「バナナを使わずに、バナナを想像させるポーズ」
とかさ。そういう言いがかりをつけまくる。学生さんは素直に聞いてくれる。
他にもいくつか同期の作品を見る。例えば昆虫食の展示がある。なんで食わないの?聞けば、パンフレットの中に面白そうな昆虫食がいくつもある。なんでこれを展示しないの?あとキャベツの魅力を伝える展示もあるけど、1週間キャベツだけ食べるとかやってみた?バナナだけで1週間生き延びるとかやってみた?
とにかく食えよ!
4年生の展示をみて感じたのがそれだった。元となる発想は面白そうなのに、なんでこういう当たり前の方向にまとめるかな。
あのね、こういう展示で何を伝えるかというと、作った人間のパッション-狂気なんだよ。それだけが展示を通して観客に伝えられること。それがなければただの場所の無駄遣いだ。
東京芸大では「君は普通だね」というのが最大の侮辱の言葉だという。この研究室が何を目指しているのか私にはわからないが、その侮辱の言葉だけが頭を何度も駆け回る。ここは「芸術大学」ではなくて「工業大学」だからいいのか?でも近年日本の製品が衰退しているのは、そういう狂気を感じさせなくなってしまったからではないのか?
次に3年生の展示を見る。インタビューしてペルソナ作ってという実に古典的なものの作り方をやっている。3年生の演習として一通りやることには意味があるだろう。しかしインタビューで明らかに間違った質問をしているのは気になる。「こうだったらどう思いますか」とか。20年前じゃないんだから、人間は自分の行動を予測するのがとっても下手、というのは何度も何度も実験で示されている。それを完璧に無視してこんなこと今更やられてもねえ。あとGoogleとかは新しいデザインサイクルについてあれこれ試行錯誤しているんだけど、千葉工大で教えられていることは20年前で止まっているかのように思える。
聞けば、この研究室の先生はいつ寝ているんだというくらい多忙とのこと。多忙はいいのだけど、知識が停滞してるんじゃないだろうか。
などという名も知れぬ白髪ジジイのいいかがりを、学生さんは素直に聞いてくれる。これはすごいことだ。というか最近の若者は素敵だよね。
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私にとっても、こういうインプットの機会は貴重だ。自分が何に対してフラストレーションを感じているか考えることで、そもそも自分は何に価値を置いているのかがわかる。
しかし最近大学の先生の「今は20世紀ですか」というような「教え」に接することが続き多少辟易している。
世界的な権威と言えるドン・ノーマンだっていうことがコロコロ変わる。日本の大学の先生も言うことが変わってもいいように思うし、そうでなければならんと思うのだけどなあ。