2009-01-30 07:59
はいくつか存在すると思っている。昨日でくわしたのはこれだ。
私が、13歳のときに宗教のすばらしい先生がいた。教室の中を歩きながら、「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。先生は笑いながらこういった。「今答えられるとは思わない。でも、50歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ」
http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=3713
50という年齢はもう目の前だ。私が今死んだら何によって憶えられるのだろうか。私は何によって憶えられたいのか。
なんだかわからないが、つい使ってしまう物を作る人だった。妙なんだが、つい聞いてしまう意見を言う人だったとして憶えられたい。
、と反射的に考えた。
でもって
「決定を下すにあたって、重要なのは分析ではなく、勇気である。」
なのだそうな。
自分が過去に下した決定を顧みると、そのほとんどが予想と異なる結果に終わったことに気が付く。つまり私の予想はほとんどあたらないのだ。
おまけに”直観に従う”というのもさっぱり当てにならない。直観に論理で逆らって失敗し、直観に従って失敗する。直観に逆らったがいやいや下した判断が後で思わぬ成功に結びつくこともある。
というわけで、何ら法則性を見出せないまま、また月が変わるのであった。はて、何を言っているのやら。
2009-01-29 09:12
昨日見つけた記事
そして全部正しいという思考が
全部正しいという仮説が、
脳のつじつま合わせ回路を最大限使って
あれもこれも正しくなる本当の解決に移行します。
http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20090128/1233071017
最近心がけている(つまりできていないこということだが)のがこの”全肯定してその上で解決策を探す”というやつだ。
ああ、何でこんな目にあっているんだ。ひどすぎる。なんであいつはあんなに駄目なんだ。。
などと私はすぐに考える。こうなると思考が止まってしまう。世の無常をはかなむくらいしかできることはない。
全肯定して、その上で解決策を探す。いくつもの問題を一度に解決する方法を見つける。
まだしばらく生きているだろうから、なんとかこの方法を自分のものにしたいものだ。
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でもって↑の思考方法をインタフェースに表現できないかと考えるのもいつものこと。
いや、いつか書いた”文章を書くためのインタフェース”にも共通するところがあると思うのだよね。いくつかのネタだけふわふわさせておいて、その勝手なつながりを見てみるとか。。。最終的に発想するのは必ず人間の脳なのだが、それを手助けするような表示+インタラクションができないかな、、と。
2009-01-28 07:19
少し前のことだが、移動時間にはあまり仕事というものができなかった。できたのはせいぜい書類に目を通したり、説明の練習をしたりといったことだった。
私より少し前の世代は名古屋から東京に出張といえば夜行列車で行ったと聞いた。それを聞いてなんとすばらしい、と思った。強制的に前夜は仕事を終え電車に乗らなくてはならない。翌日の始発に間に合わせるなんてことはあり得ないのだ。
夜行列車の中では少なくとも会社でコピー機と格闘しているよりは、よく眠れたのではないかと思うのだが。
これがもう少し時代をさかのぼると、移動時間はより長く、そしてその間仕事をする手段というのはもっと限られていた。日露戦争の頃を描いた文章を読むと、軍司令官であっても船旅の間はのんびりと過ごしている。
ここで話を現代に戻す。新幹線、飛行機を使っても移動時間はとにかく短い。その上携帯電話あり、ノートPCありで仕事が”できてしまう”のだ。
それで世の中が便利になったかといえば、そうした側面もあるのだろう。実感するのは宅配便。その昔地下鉄で数駅行き、JRの駅まで荷物を取りに行ったことを思えば、宅配便が登場する前と後で生活は随分変わった。そして宅配便の効率化には通信網の発達が寄与していると思うのだ。
とはいえ
私はとても怠け者なので、昔の生活を、仕事のテンポを懐かしく思うこともある。船での移動中碁をうったりしながらすごすってのは素敵だな。。
2009-01-27 07:00
ふんがーとなっている日は本家から改変しつつ転載。
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米国マサチューセッツ州に実在する、平均年齢80歳のコーラス隊。それで聖歌とか歌っていれば珍しくもなんともないのだろう。しかし彼らと彼女が歌うのはパンク、R&B、ロック and so on。
この映画は彼らと彼女達がコンサートに向けて取り組む数週間を描いたドキュメンタリー。最初は同じように実在のコーラス隊を描いた”歌え!フィッシャーマン ”のような話かと思う。しかし話が進むにつれ映画に引き込まれていく。Shall I stay, or shall I leave ?若い女性が歌えば男相手に決断を迫る歌詞だ。しかし92歳の女性が歌えばこの世に残るか、あの世に行くかの意味になる。
他にも知っているはずなのに驚かされた曲は多い。私と同じ年代の人であれば知っているであろうビージーズのStay'n aliveという曲。それを80歳の彼らが歌えば、まさに”生きていている”という叫びになる。(とはいえ、この場面は唯一映画的演出が過多と思われたのも確かだ が)
平均年齢80歳であるからして、練習も簡単には進まない。なかなか新しい歌詞も頭にはいらないし。あれやこれややっているうち、二人の団員が死亡する。感謝祭の間はゆっくり休んで、明けたら練習に参加すると言っていた男、そして癌と戦いながら”あと10年は大丈夫”と言っていた男。しかし思うのだ。こういう死に方というのはまさに私が望むところではないか。最後の瞬間まで自分が好きな歌を歌いたい、歌える、歌おうとしている。
コンサートのシーンでは彼らに捧げる歌が流れる。歌っているのは、心臓発作をおこし、余命2年と言われその期限からさらに4ヶ月経過した男。映画を見終わってから彼の歌声だけをWebサイトで聞き、印象の違いに驚いた。おそらくは同じ曲を一緒に歌う筈だった男を思いながら歌い上げる彼の表情は何を物語っていたのだろう。全員でなくなってしまった団員を思いながら歌うNothing compares 2 you.何度も聞いた事がある歌なのに全く違う歌に聞こえる。
このコーラス隊を指揮しているのは53?才の若造。これがまた厳しく、そして愛情を持って接している。というか基本的に相手を”お年寄り”扱いしていないのだ。当たり前のことだが、プロの歌い手として接している。そうした彼らの間にある信頼関係。”おじいちゃん、おばあちゃんお元気そうで。”といった慇懃無礼な言葉が入る余地は全くない。
そして映画を見ている私にも、彼らの歌は”お年寄りが元気だ”ではなく”彼ら、彼女達の年齢でなければ出せない味をもった歌”として伝わってくる。うまく表現できないが、余計なてらい、力み、格好付け、打算を若い頃に置き去った、心からの歌声のように聞こえる。
映画を見終わると妄想が爆発する。俺が75になったらこういう楽団を作り、ロックやポップを歌いまくってやる。そして区役所でコンサートを開き
”おじいちゃん。おばあちゃん。いつまでもお元気で”
と心にもないことをいう司会者に向け
”人の心配をするまえに、自分の健康でも心配したらどうだ”
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この映画を見ていると、彼らと彼女たちの成功に大きく寄与しているのは53歳の音楽監督であることに気が付く。”こんな曲”と思える曲を持ってきて、それをなんとかまとめてしまう。その力と発想力には驚かされる。
だから私が”75歳になったらコーラス団結成計画”を実現するためには、そうした音楽監督を見つけることが第一。
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自分が年老いていくにつれ、いろんなことを言われると思う。そしてそれに対する感じ方も変わるのだろう。
しかし
”いつまでもお元気で”
とはたぶん言われたくないのではなかろうか。
ではなんと言われたいかといえば、それはほほほほなのだが。
と言い放つのだ。
2009-01-26 07:06
特に0歳~5歳くらいの(特に)女の子を持つパパに一番強く刺さるんだろうな。いますごく幸せで、これからも娘の成長がたまらなく嬉しいんだけど、徐々に娘に自我が芽生えてきていて、近い将来に待ち構えているであろう娘が大人になって自分から少しずつ離れていくその恐怖とせつなさが涙腺を刺激するのかもしれない
http://www.tribalmarketinglab.jp/communitainment/2009/01/sony-8509.html
このCMサイトについて書かれたブログをいくつか見た。気になったのは”私には娘はいないが、きっと娘がいる父親ならば感動するのでは”と憶測で述べているものが目に付いた点だ。
ちなみに私は”0歳~5歳くらいの(特に)女の子を持つパパ”である。それでは、ということで見てみた。
感想は
”想像で勝手にものを言うな”
である。
子役タレントに何を演じさせようが、自分の娘に重なるはずもない。自慢じゃないが、うちの娘のほうが可愛いぞ。もちろんこの意見に同意する人間はうちの家族および親族しかいないだろうけど、それでも”女の子を持つパパ”はそういう風に考えるのだ。
それよりも
いかにも狙ってみました、というあざとい意識が露骨に感じられるだけ不快になる。矢沢某を使ったテレビ関係のものといい、ソニーのCMは私にとって”印象深いが不愉快”というものが多いのだが。
2009-01-23 15:00
ひこにゃんの動画をみてて思ったんだけど、これ、着ぐるみ来てなかったら地元のおっさんが舞い踊る姿を観光客がかわいいとかいいながら写真とりまくってる感じの構図だ。
着ているもので相手を判断したくないな。男なら中身で勝負してくれひこにゃん。女かもしれんが。
http://anond.hatelabo.jp/20090122234508
この文体、というかこの文章の雰囲気には見覚えがある。まさか。。
それだけは聞かんとってくれ
なのか?
最後に唐突にカレーがでてきてるし。。
2009-01-23 08:17
これだけ世界が注視する、という事実はやはり驚くべきことである。
だいたい政治家というのは悪口を言われるものだし、米国の大統領となれば、世界中から悪口を言われる。それに耐える強靭だか鈍感な神経がないととても勤まらない職業なのだろう。
でもって昨日見つけた記事
日本はまず比較原器となる「他国」を決める。それから、「それに引き換えわが国は・・・」というかたちで自己規定を果たす。
http://blog.tatsuru.com/2009/01/22_1011.php より
米国は政権が変わったから日本も変えよう、とか真面目顔で発言していた政治屋もいる国である。確かに単独で自らの姿を規定することができない。
ここらへんの考察は楽しいですね。個人でもそうしたことが言えるのかな。”お隣のなになにさんは○●なのよ。それにひきかえうちは”とかなんとか。
2009-01-22 08:03
ネタがないことはないのだが、本日は本家から改変しつつ引用。
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映画が始まってすぐ、これは前作と続きの話であると気がつく。特に前回の最後死んでしまったヒロインの意図を巡ってあれこれあるものだから、観ている側の悩みは深まる。えーっとどんな話だっけ。確か最後に007の助けを拒否して水の中で死んじゃったような気がするけど。。
とはいえ、そうしたことをすっとばしてもなかなか楽しく観る事ができる。90分あまり、というひきしまった時間の中で世界中をあちこちに飛びながら話が展開する。一時超兵器がでたり、怪しげな日本に来たり、おちゃらけ路線を進んでいた本シリーズだが、今のクレイグ君になってからと言うものそうした要素はすっかり影を潜めた。
主人公はその新しい007のイメージにぴったり符合した演技を見せる。ヒロインと最後までくっつかないのが大変よろしい。このヒロインは、ロシア人と黒人の混血という設定だが本当にロシア生まれらしい。チョイ役の女の人はかわいいしなかなか良いキャラクターだとと思っていたら、うーむ。
一番印象的なのは敵役の男である。は虫類的に気持ちの悪いキャラクターを熱演している。このは虫類男、結局巨大組織の中間管理職でしかないのだが、最後には奇声を上げながらボンドに一対一勝負を挑む。ううむ。しがない中間管理職といえど、ここまでやってくれるとは。
本作は”謎かつ巨大な敵組織”の形がおぼろげに見えただけでおしまいとなっている。ひょっとしてクレイグ君が主役になってから一話完結をやめ、続きシリーズにしているのではなかろうか。このシリーズでいくつ作るつもりか。まさか次の作品で
”巨大な敵組織ってなんのことっすか?”
とはならんだろうな。
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確かパタリロで
”姿の見えない巨大な悪の組織”
の前ふりだけやって、作者が放り出したことがあったやに記憶している。まさかこの映画ではそんなことはやるまいが。
2chとか見ていると戸田氏の字幕についてあれこれ批判的なコメントを目にする。私はあまり気にしたことはないのだが、気にする人は気にするようだ。
実は私の母は戸田氏と大学時代同級生だったとのこと。当時の印象を聞くと
”今とおんなじ”
だそうな。最近は松浦氏という名前を字幕のところで見ることも増えた。アンチ松浦氏的なコメントはまだ見たことがないが。
2009-01-21 07:01
こんな記事を読んだ。
米GIZMODO編集チームによる、Android搭載の「T-Mobile G1」も交えた、怒涛の13本勝負での三つ巴ガチンコ対決!
【Palm Preはマジでスゴいのか? iPhone及びAndroidとガチンコ13本勝負で徹底検証 : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン), ガジェット情報満載ブログより引用】
あのー、ワシントン州シアトルにいる人達も混ぜてあげては、と思うのですが。。
日本の携帯メーカーはスマートフォンというと結局Windows Mobileを使うしかないのだし。。せめて比較の対象にしてあげてはどうか、と。
しかし何がこうした”OSの出来不出来”を決定するか、というのは実に興味深い。比較の対象にすらならない会社のことを考えれば
”資金力”
ではないことだけは確かだ。
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何度か書いたような気もするが、iPhone,そしてPalm Preで驚くことのうちのひとつは
”異常なまでのタッチパネルの反応のよさ”
だ。Windows Mobileのそれがどうしても”タッチを検出して、そして画面を書き換えて”というのが人間に分かってしまうのに対し、iPhoneは”ただ滑らかに動く”。
ひょっとして、タッチされてから動作をしているのではなく、近接センサを併用しているのではないか、という意見を言った人がいた。あるいはそうなのかもしれない。
2009-01-20 06:58
を想像できるだろうか?彼が”主人”の草履を懐にいれて温めている様子を想像できるだろうか?
いや、私が生まれ育った場所では、毎年秋になると”郷土英傑行列”というのがあって、織田、豊臣、徳川の3人に扮した中年男性が練り歩くのですよ。でもって私は彼らの業績に対して、大河ドラマくらいの知識しか持ち合わせていない。
しかしながらあの3人の中で、真に革命的な新機軸を次々と打ち出し、時代を変えるきっかけを作ったのは織田だったと思っている。
さて、ここからが本題。
織田信長が”新入社員の織田でース。なんでもやります。皆さんかわいがってくださーい”と言っているところを想像できるだろうか?あるいはSteve Jobsでもいいし、Bill Gatesでもよい。
彼らにはそうした”下積み時代にくだらないことをひたすら経験する”ということは全く無理なように思う。でもって昨日見つけたブログの内容だが
彼等は“つらいこと”に耐えられないわけではない。“くだらないこと”に耐えられないだけ。なので働く時間や働き方だけみれば右上の黄色のボックスの人達と変わらない、もしくは、もっと働いているかもしれない。だけどそれは彼等にとっては「自分がおもしろいと思えること」であり「自分が意味あると思えること」なわけ。
【日本に起業家が少ない理由 - Chikirinの日記より引用】
そういった人間は起業家になる、とこのブログは言っている。確かにそうだ。世の中にはトウショウヘイとでもいうべき人がいて、明らかに上司をしのぐ知性と実力を持ちながら、上司が死に絶えるまではじっと耐え、そして頭の上の障害物が消えたところで力をふるい始める。私が思うに、日本の大企業というのはだいたいそうした人たちによって支えられているわけだが、織田、Jobs,Gatesなどという連中にはそんなことは不可能だ。
超くだらんことをいう、いかにも能力も時代への適応力もない上司が自分の倍の給与を貰っていても「まあそんなもんだ」と納得し、自分がそういう立場になるまで「20年間待てるか?」とか、
「こんな資料、絶対誰も読み直さないよな」と確信できる会議の議事録を何時間もかけて作り、課長に“てにをは”を直されては素直に修正し、部長に印刷がずれてると言われてはインデントの設定をやり直す、みたいなことを「来る日も来る日もやり続けられるか」みたいなこと。
【日本に起業家が少ない理由 - Chikirinの日記より引用】
これができなければ大企業に勤めるべきではないし、そもそもトウショウヘイにはなれない。
でも引用元のブログにあるように、こうした態度は我が国において”道徳”と同一視されている気配があるのだよね。”こんなこと意味ないです”などと一言でも言おうものなら、、、まあその結末は神のみぞ知るところだ。
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さて、ここで話は私のことになる。
私はこのブログに書かれているとおりのコースを通って、大企業からはみ出してきた。
問題は
自分で起業するような胆力がないことだ。
結果として、サラリーマンのままふらふらしている。
ふーらふーら。
2009-01-19 07:30
今は自慢がこれくらいしかないが、私は高校のころまでの成績は確かによかった。
しかし最近”やはり俺はどこかおかしい”と思うことが多い。
先日見つけたこの記事を読んでその感を新たにした。
仕事においては、頭のよさというのは、つまり「システムを把握する能力」と断言してよいのではないか、と考えるようになった。システムとは、つまり因果関係であり、構造だ。対象が、目に見えない、手にも触れないものの場合は、そうしたものを頭のなかで展開させる能力でもある。
そして、システムを万全に把握したうえで、新たに自分自身でシステムを作り出せる人間が、いちばん強い。
まあ、こう言うと、古典的な守破離ってな話になるわけなんだけど、まあそれはそのとおり。必要なのは「守るべきこと」というのが単なるシステムであり、現実にあわせて柔軟に変化させなければならないのだ、つまりシステムが「なんのために」存在しているのかを理解できること。システムを把握するということは、すべてのシステムはなんらかのシステムのメタであり、この世界は(とりあえずは)メタの網の目でできていることを理解することだ。
【「頭のよさ」をコンビニの現場から考える - G.A.W.より引用】
私の問題点はこの”メタ”な視点を見失いがいなところにある。
金を持っている人間が、自分の過去ばかり語り新しいものは勉強も理解もせず、自分に媚びるか否かだけで成績をつけていたとしよう。
そこに正面から立ち向かっても無駄なのだ。その人間は金を持っており、システムの正面上は立ち向かっても勝ち目はない。
しかし、そうだからといってフラストレーションや絶望感を感じる必要はないのだ。
”システムを把握”すれば、そこからメタな視点を持たなければならない。そうすればそうした状況下でもっと上手にふるまうことができたはずだ。
この文章を読んでいて、姉が学生時代に経験したカラオケ映像撮影のバイトの話を思い出した。
姉はもちろんただの女子大生だから、チョイ役である。本物の女優はちゃんとおり、その人といろいろお話したのだそうな。
女子大生な数人。女優は一人だが、会話において圧倒されっぱなしだったそうな。そして監督に”あたし言ってやろうと思ってるのね”という。
じゃあいざ監督とあうとどうなるか。ちゃんと礼儀正しく、節度を守りながらも、先ほど”言ってやる”といったことはちゃんと伝えていたそうだ。姉はその姿に強い印象を受けたという。
監督-女優というシステムをきちんと理解した上で、それをメタな視点からとらえる。そうすれば、それが人間としての上下とかそんなこととは何の関係もないことがわかるだろう。
女優はそこをきちんと理解した上で、仕事をし、自分をきちんと主張していたのではなかろうか、と今ならそう思える。
私はそうした知恵が確かに欠けている。なにまだ遅くはない。今からでもなんとかしようとせねばならぬ。子供にいつもそう言っているしね。
2009-01-16 07:47
昨日見つけたブログの記事から。
それはいいとしても、値頃感で勝負というのはいただけません。値頃感はどんどん下がっていきます。値頃感で勝負というのは、自ら進んで価格下落していくコモディティ化の流れに飛び込んでいくということです。
それだったらSONYというブランドが存在する根拠を失います。もっと安い、ブランドでないテレビはいくらでもあり、そちらにどんどん近づいていくということです。
(中略)
SONYというブランドの存在価値が、ワクワクするような商品を生み出してきたこと、また今後ともそうだとするのなら、「テレビを見る道具」という概念を破壊するような新しいコンセプトの商品なり、仕掛けを開発して世に問うつもりだというぐらいでないと誰も納得しないのじゃないでしょうか。
【大西 宏のマーケティング・エッセンス:さらに泥沼にはまりそうなSONY - livedoor Blog(ブログ)より引用】
私見になるけれども、ムーア氏の問いかけに対する回答とは....『ユニークさ』『ソニーらしさ』ではないだろうかと思う。
日本は長期にわたり、国内市場が安定に推移してきた。ところが、一たび世界に目を向けると、その競争の激しさ(スピード、M&A、人財獲得など)に驚きを隠せないだろう。自分を含め、\\\"使い手\\\"である消費者は、きっと、『ユニークさ』を期待しているに違いない。上手く言葉で表現できないかもしれないが、『あえて、ソニーはお客様の\\\"心\\\"を満たすため危険(「Innovation」)に挑戦する。ソニーを信じなさい!』.....
【Prewire: 「キャズムのムーア氏、ソニーとアップルの違いとは・・・・」より引用】
二つのブログの意見に深く同意する。というか自分の文章力の中に恥じ入るばかりである。
少なくとも私が若いころ考えていた”ソニーらしさ”は今のソニーからはみじんも感じられない。あっと驚くような製品で私たちの夢をかきたててくれたソニーの姿は、Appleや任天堂にとってかわられた。
あるいはソニーはそうした幻想を自ら否定し、”値ごろ感”で勝負するDELLのような企業を目指しているのだろうか。デルソニーなんてのは語呂からいっても最悪だと思うのだが。
2009-01-16 07:41
”ハドソン川に旅客機が不時着”というニュースを見た。
飛行機にのるたびに、救命具の使い方を見せられる。ドアからすべりおりる時に使うものは、救命ボートとしても使える、といつも言われる。
飛行機が水上におとなしく不時着することなんであるのだろうか。だいたいどっかんと墜落するか、上空で爆発とかそんなのばかりではないか、と思っていたが本当にそういうことはあるのだな。
今のところすべての乗客が救助されたと伝えられている。死者がでなかったのは何より。
2009-01-15 07:38
CESで展示されていたらしいインタフェース。
東芝が展示している「Spatial Motion Interface」(空間モーションインタフェース)は、テレビ上部のセンサーでテレビの前にいる人を認識し、その人の手の動作(モーション)を読み取ることで、コンテンツの選択や、再生/停止、早送り/早送りなどの操作が行える。
【2009 International CES:コンテンツの球体を操る、東芝の手かざしインタフェース - ITmedia +D LifeStyleより引用】
記事を読んでの感想は一言
”いい加減にしろ”
ジェスチャーインタフェースにどのような問題があるかはいくつもの先行研究で分かっているはずだ。あるいは少し使ってみればわかる。
ボタンは偉大だ。押せば、ほぼ100%で意図した反応が返る。対するに”なんとか認識”がでてきた瞬間に、
”これを読み取ってくれるかな”
という恐怖とユーザは常に戦うことになる。
もうひとつが、「ジェスチャーが操作インタフェースになることを利用者が受け入れるか」という利用者意識の問題だ。前者についてはより調整と改良を進めることで改善を図れるが、後者については同社もまだこの“手ぶり”インタフェースをどのように位置づけるか、検討を重ねている段階にある。
【2009 International CES:コンテンツの球体を操る、東芝の手かざしインタフェース - ITmedia +D LifeStyleより引用】
こうした
”とりあえず作ってみました。展示してみました”
なんてのが許されるのは、せいぜい修士課程の卒業研究まででいいのではなかろうか。
Cellのありあまるパワーがあるなら、Goromi-TVでも実装したらどうだ、、、と結局は自画自賛になってしまうのだが。
2009-01-14 08:34
についてあれこれ考えている。
まず文書の書き方だが、G.M.ワインバーグの文章読本に沿って、次のように考える。
・まずひたすらネタを集める。
・それを自由に並べたり、並べ替えたりする。
・つなぎの言葉。それにふさわしい言葉を試行錯誤しながら選ぶ。
・一割削る
・上記プロセスを繰り返す
つまるところ、文章作成とはリニアなプロセスではなく、行ったり来たり、試行錯誤を大量に含むものなのだ。なんなら集めたネタを自由に組み合わせ、そこからインスピレーションを得ることもあるだろう。
であれば、文章をリニアに入力していく今のワードプロセッサというのは文章作成の支援を十分に行っているとは言い難い。もっと自由に試行錯誤ができるツールが必要なのだ。
それはどんな形か?
ここで話はいきなり飛ぶ。デッサンとは柔らかい不確かな線をたくさん書いていき、そこから自分が求めている線を見つける、とか中学の美術の事業で聞いたような気がする。
文章作成もこのように行えないだろうか?いろんな可能性、組み合わせを提示しておき、そこから自分が求める文章を見つけるような。そんなインタフェースができないだろうか?
といったところで今日はここまで。
2009-01-13 07:48
例によってネタのない日は、本家から改変しつつ転載
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チェ・ゲバラという人の名前を聞いた事はある。しかし何故わざわざ2部作にするのだ。一本にまとめればよいではないかと思いながら見始める。
見終わってみれば、2部作で正解だ。それほど丹念にまじめに革命家のたどった跡を描こうとしている。映画らしいエピソードがあるわけでも、わかりやすい栄光-転落があるわけでもない。しかし2時間以上にわたってただスクリーンに見入ってしまったのは驚きだった。
映画の本編前に”チェはアルゼンチンで生まれ、南米諸国を旅し、カストロと出会い”と映画に必要な予備知識が流れる。そのまま映画に入ればいいものを、例の
”映画が盗まれています”
という不愉快な映像が流れる。いや、前の女の子が黒い涙流すやつに比べればましだけどね。
まあそんなことは些細な事。キューバに上陸したカストロとチェはゲリラとして戦いを続ける。この”ゲリラ”という言葉は何度も聞いた事があるが、その姿はおそらくこの映画に描かれているより悲惨なのだろう。けがをしても病院など入れない。そもそも屋根がない。最初は誰が誰やらさっぱり区別がつかなかった。ただ、みんな汚いからだ。後半なんとか主人公とカストロだけは識別できるようになるが。
そんな暮らしと戦いを続けながらも勢いというのは恐ろしい。いつしか彼らは民衆の歓呼の声を受ける立場となる。そしてスーパーマンでは決してないのだが、なぜチェが重要な人物として扱われるかもちゃんと伝わってくる。
さて、革命成就、というところで第一部は唐突に終わる。しかしその最後のエピソードは革命のその後の運命を暗示しているようであり興味深い。
ソダーバーグはいろんな映画を撮る人だが、やはりこうした題材をまじめに取り上げるところに本領があるようにも思う。この映画をみて、俄然ゲバラに興味を持ち、Wikipediaを読み出す。おっといけない。Part2のあらすじに踏みこむところであった。そこを読むのは続編をみてからにしておこう。
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うっかり読んでしまったWikipediaの範囲からも彼がそのあとどのような人生をたどったかが見えてくる。
それについていろいろ考えることはあるのだが、まとまっていないから今はそのままにしておこう。
2009-01-09 13:10
と断言する。
プレゼンテーションの印象としては、あえて語弊のあるいいかたをすれば「正しい iPhone OS」。あるいはAndroidのタスク管理や拡張性とiPhone OS X滑らかなUIを併せ持つ「未来のモバイルOSデモ」のようにすらみえます。事前情報が少なかったことによる驚きを差し引いても、iPhoneのOS XやAndroidの登場した激戦区にいまから投入されるにふさわしい強力なプレーヤーがいきなり出現したといえる発表です。
【速報:Palm、新プラットフォームPalm Web OS、新スマートフォン Palm Preを発表 - Engadget Japaneseより引用】
特にこの製品を、前日発表された
”ポケットにはいるPC"
SonyのVAIO Type-Pと比べればその差は明白である。結局Vistaマシンなんでしょ?それが何?
VistaやWindowsMobileにいくら皮をかぶせても、Flashでいくらがんばろうとも、iPhone OS, Palm Web OS,そしてAndroidには手も足も出ない。
しかし今度のPalm OSには正直驚いた。正しいiPhone OSという表現には半分同意し、半分は”まだわからない”と思っている。iPhoneOSが分かっていながらあえて切り捨てた部分を、Palmは独自の判断で追加している。それがどのような結果をもたらすのかはもう少し慎重に見守りたいと思う。
しかしなんですね。世界で一番儲けているソフト会社の”技術力”も方なしだ。Appleならまだしも、誰もが”まだあったの?”と思っているようなPalmにまでやられるとは。
今頃Windows Mobileのチームには戦慄が走っていたりするのだろうか。
もちろん日本のケータイメーカーは何も起こらなかったかのように日々の業務を継続するのであった。とはさすがにならないか。。これまでは"iPhoneみたいな”だったけど、これからは"iPhoneやPalmに負けないものを作れ!”になるわけだ。そしてだんだん”負けてはいけない製品”の数が増えていく。
PalmだったらAppleと違ってOSライセンスしてくれる可能性も高いから、素直にライセンスを乞うてはいかがでしょうか。もちろん自前でこれより良いOS作れる自信があれば別だけど。
2009-01-09 08:10
ブログの中で何度か書いているが、ソニーという企業は私にとってかつてはあこがれの対象だった。
1990年の米国でハンディカムを持っていることがどれほどの意味を持っていたか説明することは難しい。それは真に
”生活を豊かにする”
製品だったのだ。
それから月日は流れ現在のソニーには目を覆うばかりである。経営がどうのこうのとは言わない。一消費者から見れば
”ソニーならでは”
の製品がほとんどない、という事実に気が付く。なのに消費者に対する態度は、かつての”あこがれのソニー”のままだ。あの頃は
”壊れるし、態度悪いけど、この製品はソニーにしかないから”
という理由で買ったものだが。
----
さてそのソニーが小さなPCを出した。
結論から言えばD4よりはかなり高速(単純にメモリ容量が2倍になっただけでなく、1.8インチHDDとSSDの差もあると思う)だが、それでも一般的なノートPCの基準からするとかなり遅い。もし、VAIO type Pの購入を検討しているのであれば、個人的なおすすめはVAIO・OWNER・MADEで選べる1.83GHzモデルだ。
【本田雅一の「週刊モバイル通信」より引用】
最近勢力を増しているNetBookとは確かに一線を画した製品ではある。
しかし
20年前であれば、この製品はほかの会社が出し、ソニーはそれらとは異なるiPhoneを出していたのにな、と思わざるを得ない。
パフォーマンス面では制約の多い本機だが、メモ代わりや電子メール、Webアクセスなどで不足は感じない。
【本田雅一の「週刊モバイル通信」より引用】
これらの用途には、今や無線によるネット接続を前提としたiPhoneそのほかのスマートフォンが使われようとしている。
無理やりポケットに放り込むことができるサイズらしいが、そんなことをしなくても、胸ポケットに軽く収まるiPhoneで同じことが問題なく行えるのだ。
いや、もちろん使い道について私の想像力が追いついていないだけかもしれないけどね。同じMIDベースのWILLCOM D4を手にし、
”これはネタ以外に何に使えるのか”
と沈思黙考した身としては、
"今のソニーにしてはがんばったということなのかな"
と冷静に記事を読むことしかできないのだ。
2009-01-08 07:18
電車の中に、学習塾の宣伝があった。いわく
”映像(映画など)と比べて小説にはどのような魅力があるが150文字以内で述べなさい”
私は塾に通っているわけではないので、文字数の制限は気にせず書いてみようと思う。
・映画は時間の流れを作品にコントロールされる。小説は自分のペースで読み、中断、再開することができる。
それゆえ、映画では3時間が実用上の最大値だと思うが、小説ならば、何日もかけて読み終えるようなものを作ることもできる。
・小説では、映画では表現しにくい物事や心理に関する詳細な描写を行うことができる。(ちょっと待て。これはなぜだ?)
・小説では映像がないゆえに、読み手の想像力をかきたてることが可能となる。おそらく多くの人がお気に入りの主人公の容貌を頭の中で作り上げていると思う。それゆえ小説が映画化された時には文句が噴出するわけだ。
・カフカの短編”橋”のように自由に視点を移動し何が起こっているか誰にも分からないような状況を作り出すことができる。
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とつらつら書いてくると
メディアの特性による表現の違い、というのがあれこれわかるような気がする。
”一般的”に映像の方が短時間で多くの情報を得ることができる。しかしそれは必ずしもメリットとは言えない。特徴なのだ。
文字での表現はその力に制約があるがゆえに、受け取り手の想像力を刺激することも可能となる。(もちろん同じことは映像の表現でも言える。何でも説明してしまうのではなく、受け取り手の想像力を刺激する名作はいくらもある)
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エンジニア的観点から情報デバイスを考えると 文字ベース→静止画表示(白黒→カラー)→動画表示 と一方向で考えがちだ。
技術的な難易度でいえば、確かにその順番で間違っていない。しかしそれが受け取り手にとってどうかというのは全く別の話だ。
こうやって書くとあまりにも当たり前の話なのだが、それを忘れるエンジニアの多さには驚くことが多い。
2009-01-07 13:09
私もこの番組を見た
「夢の扉」というテレビ番組に、東大でロボットを作っている研究室が取り上げられていた。 手足と頭のついた、本物の「メイドロボット」作っていた。東大なのに。
(中略)
ロボットの動作は極めて複雑で、バックグラウンドに投入された技術はすごいのだろうけれど、 発想が足りない気がする。「発想」というものは、「洗濯をする機械を作る」という問題を、 「水を攪拌する機械を発明する」と言い換えることであって、掃除するロボットをそのまま作るのは、少し違う。 自立して動く掃除機ならば、もう何年も前に市販されていて、お掃除ロボット「ルンバ」のパチモノなら、 今はもう、ホームセンターで2 万円しない。
【メイドロボットを開発するセンス - レジデント初期研修用資料より引用】
そして私も番組を見て”げっ”となった。少し違う理由からであるが。
番組では皿を持つのに苦労している様子が描かれていた。記者会見直前にその問題は解決された。どうやったか?
さらをいったん他のさらにたてかけ、よこから再度つかむようにしたのだ。
私が大学を卒業したところは、人工知能バブルがはじけるところだった。プロダクションシステムとかエキスパートシステムが何を残したのかについては、いろいろな議論があるだろう。私が信じているところによれば、あの騒ぎから学ぶべきは
”特殊状態におけるルールをいくら積み重ねたって、実世界で役に立つ物はできない”
ということだ。
確かにそういう”動作”をプログラミングすることで、記者会見は乗り切れるかもしれない。しかしそこに何の意味があるのか?
たとえば、ロボットが皿をつかむ方向を自動的に試行錯誤から学習した、とかいうのであれば話は別だ。しかし(少なくともあの番組から見る限りでは)そうしたアプローチをとった結果とは見えなかった。
少し条件が変わったらどうなるのか?またロボットに新たなパターンをプログラミングするのか?
あのあと該当記者会見の記事を検索してみたが、ほとんどでてこなかったのが救いともいえるかもしれない。
冒頭引用した記事にも深く同意する。擬人化ロボットを作るのであれば、それなりの価値を訴求できるようにすべきだ。
いや、今は稚拙だけどこれは長い道のりの第一歩なんです、と思わせてくれればいいよ。だけどやっていることは
”ああ、これは前にも見たことあるな”
としか見えなかった。
というか日本人って擬人ロボットに異常なほど執着する傾向がある、と考えるのは私だけだろうか?
そうした傾向を考慮すればあのようなロボットを”産学共同で作る”ことは”ある面”から見て意義深いことなのかもしれないが。
2009-01-06 07:29
昨日こんな記事を見つけた。
「そんな金で貯金してもしょうがない。おしゃれなどしてもしょうがないだろ。使うなら五感に使え!」
つまり何も形に残らないものに金を使え、と社長は言うのだ。
しかし振り返ってみると形に残らないものこそ後に残ることを彼は知る。
彼はそのお金で一泊28万円のホテルに泊まることになる。
そこには確かに自分が知らなかった世界が展開されていた。
そこでの体験は確実に彼の今の仕事に生かされているのだ。
【【東京ブック】 「五感を育てること」に投資する | IDEA*IDEAより引用】
自分の金ではないが、私も同じような経験をしたことがある。調査との名目で、京都の老舗旅館に一泊したのだ。
その時の感動、体験した内容は未だにネタにしている。(数日前のエントリーもその時に体験した内容だが)確かに10倍(をうまく)払えば”ビットの泥沼”に使っているのとは違う体験ができる。
そのあとブログはこう続く。
■ 企画
1. なんでもかまわないが、普段と10倍違う予算を「五感を育てること」に投資すると決心する。
2. その予算で一ヶ月以内に新たな経験をする。
3. その経験を一日限定ブログで公開する。
【【東京ブック】 「五感を育てること」に投資する | IDEA*IDEAより引用】
いい企画だと思うが、最後の項目だけ同意しかねる。私の考えだが、ブログというのはあくまでも軽く書くものではないかと思うのだ。それゆえ速報性があったり、日々の記録になるわけだが、深い考えを何度も推敲しつつ書くのには向かないと思う。
11月に行ったベルリンフィルのコンサートはまさしく”10倍の金を五感に投資する”体験だった。事前に書こうと思っていたわけではないが、思わず文章にしてしまった。(その前にベルリンフィルに行ったとき、ウィーンフィル+アーノンクールの演奏を聞いた時も文章にした)
これらの文章はブログに書くより、サイトに何度も遂行し、自分の中で考え直して書くべき内容のように思うのだ。
こう考えると、ブログとサイトと両方持っている、というのは結構自分の趣味にあっているのかもしれないな。
2009-01-05 07:42
というわけで話は出会い系である。
新しい発見、新しい出会いを見つける作業が、いまだ人の手にあるんではないかと感じました。Google だなんだといろんな会社がサーチエンジンを提供しています。しかし、コンテンツの幅もフォーマットも量もどんどん増殖しているなか、満足できるシステマチックな出会いを提供できているサービスはわたしは残念ながら知りません。
【次になにをするべきなのか [dh memoranda]より引用】
自分が知らなかった、だけどその存在を知ってから俄然興味を抱くようになったこと。このように”潜在的な興味”を検知しそれに関する情報を提供する、ということは未だ行われていない。
もちろん多くの人が問題意識だけは持っているのだろうが、問題が問題だけに解決の糸口もよくわからない、ということなのだと思う。
林氏はこれについてこのように述べている。
私が最近、思っているのは、結局、たくさんある情報のうちrelevancyが高いのは、
次のいくつかの評価軸でスコアが高い情報じゃないかと思っている。
1. 時間軸:最新の情報だから価値がある
2. 人軸: 自分の親しい友人が発する情報だから価値がある
3. 空間軸:すぐ近くで発せられた情報だから価値がある
【nobilog2: ブログは会話 + 情報のディスカバリーより引用】
この考えは合理的であるし、システム化も容易と思えるが、私が考えている”出会い系”の情報システムとは距離があるように思える。
ではどうするのか?
アプローチは二つある。
ひとつは真面目に”潜在的な興味とは何か。どうやったら発掘できるか”と考えること。これはインテリジェンス的なアプローチ。
もうひとつは”探させ、考えさせる”こと。これはGoromiのようなインタフェースを提供することでもある。これはインタラクション的なアプローチだ。
人間は自分で探した、と思っている情報にはより深い愛着を感じるもの。であれば、下手に考え抜いて少数の情報を提示するより、とにかくたくさん提示し、そこから選ばせる方がいいのではなかろうか。
最近再びGoromi-Webを使い始めている。すると例によってどうしようもない知識があれこれたまる。そこに何か意味があるのか、ないのか。仕事をさぼりながらそんなことを考えている。