2009-09-30 06:57
というわけでとりあえず引用である。
「創造性」はトレーニングで高めることができると私は考えています。純粋な創造性というものがあるのかどうか私にはわかりませんが、ここでのカギ括弧付きの「創造性」とは社会的に決定される創造性であり、養老先生の言う「天才の条件は世の中に広く理解されること」とよく似ています。
via: ハーバード大学医学部留学・独立日記 ... 効率性と創造性とは矛盾しない
モーツァルトの書簡集を読んでいると、当時、パリの音楽好きはなんとか派となんとか派にわかれて言い争っていたのだそうな。モーツァルトが何を作っているか聞こうともせずに。
従って当時のパリにおいてはモーツァルトは天才ではなかったことになる。
現在有名とされている音楽家のエピソードを紐解いてみると、こうした例にいくつもぶつかる。当時はその"今は有名な音楽家"をはるかにしのぐ名声を確立していた人がいた、と。その名前は今は誰も知らない。
この定義は正しいと思う。しかしどこかに違和感が残るのも確かだ。
先日観た映画"ココ・アヴァン・シャネル"では、シャネルは"嫌悪感に敏感"(うろ覚え)とかいうセリフがでてきた。こちらに私はより共感を覚える。
日常生活に感じる微妙な嫌悪感。それに慣れてしまうか、"なぜこうなのか。もっといい方法があるのではないか"と考えるかが創造的になれるか否かの境目だと思うのだ。慣れてしまったらそこでおしまい。自分にはもっとうまくできる、という思い込みがなければ誰も新しいものなど作ろうとしない。
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といったところで本日の"Goromi-Tubeでみつけた動画"コーナー。
8年生というから中学2年生かな?あんまり上手ではないけど一生懸命吹いているのがかわいらしい。
2009-09-29 07:09
その昔いろいろな説明をする資料をつくるためには"切り張り"という技術が要求された。
新幹線の終電、もしくは始発で間に合うときは、徹夜で資料を作りそれでいかされた。
そんなとき、新幹線がなかったころの話を聞いた。なんでも朝から東京で行われる会議には夜行でいくしかない。したがって徹夜で作業はありえなかったと。
いいなあ、と思った。
今は切り張りなどめったにやらない。コンピュータの上であれこれやる。資料だけおくるならメールでもOKかもしれない。確かに不毛な作業は減った。細かい点を一つ一つグラフ用紙にプロットするなんてこもやらない。
しかし
思うのだ。その夜行列車の中はどのようだったかと。もちろんその中でも仕事をした人はいるのだろうが、ぐっすり眠った人も多かったのではなかろうかと。
メールと携帯電話のおかげでいつでもつながるようにはなった。しかし全体としてそれが幸せにつながっているのかについて、私はいまだに確信が持てない。
ペリシエール氏は、France Telecomの民営化で一部社員が明らかにかなりの重圧を受けていると語りつつも、新技術の登場によって私生活を仕事が浸食するようになっていることが事態を悪化させていると付け加えた。
「15年前、大企業の平均的な社員は携帯電話も自宅用PCも持っていなかった。家に帰れば仕事から離れていられた」(同氏)
via: 社員の自殺相次ぐFrance Telecom、「電子メールがストレスに」と幹部 - ITmedia News
こうした側面は確かにある。善かれあしかれ、会社をはなれて家の電話が届かない距離にいれば、仕事から離れられたのだ。
最近でも"セキュリティの都合上"社外からメールをみることができない会社がある、と聞いた。いいなあ、と思う。
2009-09-25 07:10
というわけでサマーウォーズ である。他の人が書いたこの映画に関する評を読むことがある。
たとえばこんなのがある。
出来が悪いのかと訊ねられたら「いや、素晴らしい」と答えるし、つまらないのかと訊ねられれば、「いや、面白い」と答えよう。そういう意味では満足度の高い快作に仕上がってる。
でも、好きかと訊ねられたら、「うーん、嫌いじゃないけど」という歯切れの悪い答え方しかできない。
via: 【映画評】サマーウォーズ (2009) - 未完の映画評
素晴らしいし、面白い。だけど好きとは言えない。この評価の順序がどうにも腑に落ちないのだ。
よく読んでみると、この人がひっかかったポイントと私が感じたポイントはほぼ似ていることがわかる。しかし"素晴らしいし、面白い"これはどういうことか?
これに類する評もいくつか目にして首をひねっていたのだが、昨日ようやく答えになりそうな文章を見つけた。
前にsukebeningen氏がSUKEBENINGENSUKEBENINGEN アニメ表現の優先順位。 というエントリーで「アニメ 界におけるヒエラルキー 」について書いていて、「アニメーター に比べて脚本家や音楽家や声優 は下である」というのを説明していたのだけれど、この「サマーウォーズ 」の作者は、そうしたヒエラルキー をまさに体現している人なのだと思った。この人はきっと、絵さえ動けばいいのだ。ストーリーはあまり重要ではないし、音楽や声優 はそれ以上にどうでもいい。そうしてそれで、実際にヒットしている。だから、映画やビジネスとしてはそれで十分なのだろう。
via: 「サマーウォーズ」の感想 - ハックルベリーに会いに行く
アニメーションという世界では、絵が動くことが第一で、脚本も音楽も何もかもそれ以下という評価軸が存在するのだな。なるほど。
この監督の作品はあと一回だけ見てみようと思っているが、そうした評価軸の存在を念頭に置きながら見たいと思う。
2009-09-24 06:48
某企業集団は"なぜ"を何回も繰り返す、ということを半ば信仰していると聞いた。
それによって"質の高い仕事"ができる、ということらしい。
それとは反対の意見を先日目にした。
こういう言葉が出てくる時は良いことをしたときよりも、悪いことをしたときや上手くいかなかったときのほうが多いでしょう。先生や親からの「なぜ」に反省の促しや責任を迫る意図を感じ取ってきた私たちは、「なぜ」という言葉を聞くと無意識に防御態勢に入ってしまうのです。 そのため、「なぜ」と問いかけられると、相手は「申し訳ございません。私の不注意で」「がんばってみたのですが」と反省モードに入ったり、「他に優先することがあって」「不況のせいでどこも話さえも聞いてくれなくて」と言い訳モードに入ってしまいます。
via: 「なぜ」は、やる気と成長を止める質問 (All About) | エキサイトニュース
もちろん観点が違う、ということなのだろうとは思う。しかし最初に挙げた企業集団の人が"なぜを繰り返せ"と言いだした時、たいていの場合は批判であり、相手を拒絶する態度であったことも確かだ。(ものすごく狭い範囲の経験でものを言うが)
理由付けがしっかりしていればちゃんとしたものができる、という信仰も一部大企業にはびこっているが、私はそうした態度に懐疑的なことが多い。Microsoftには"戦略税"なるものがあると聞いた。あるプロジェクトを立ち上げるとき、何度も何度もその戦略について説明をしなくてはならないのだそうな。
ではMicrosoftは戦略にのっとったすばらしい製品を発表し続けているかといえば、そういうわけでもない。Zuneだってきっとたくさん戦略税を払ってきたと思うのだよ。商品が売れる、売れないのは運の部分が多いとしても、Zuneがはらった戦略税をぜひ一度拝見したい、と思うのは私だけだろうか。
2009-09-17 08:13
本家の方に書いたことだが
"自分の人生についてたてた予想はすべて外れている"
次の就職先も見つかっていないのに会社をやめるなんて信じられない、と思っていたら自分が34歳の時にそれをやることになった。そもそも30になったら見合で結婚すると豪語していたのだが実際に結婚したのは39歳の時だった。
Steve Jobsも有名なStanford Universityでのスピーチで言っている。Connecting the dotsと。後から振り返ってみれば自分が行ってきたことが役に立ったことがわかる。しかし前もってそれを計画することはできない。後から振り返った時にだけdotがconnectされていたことに気がつくのだ、と。
先日別の記事を見つけた。
「キャリアは不確実で、その8割は予期せぬ 偶然の出来事によって支配される」 「予期せぬ出来事が個人のキャリアを左右する。だからこそ、その偶然から逃げるのはなく 積極的につくり出し、その出来事を最大限利用しよう」
via: FPN-仕事とか生き方に悩んでる人へ「計画された偶発性理論」
この記事を読んで気がついたもうひとつのことは
"自分が何を望んでいるかはなかなかわからない"
9年ほど前、私は生れ故郷に帰り、大きな会社で硬い仕事をやって暮らそうと決意していた。しかしあれこれあってその決意は実現されず、今は生れ故郷から数百キロ離れた小さな会社で働いている。
この間いろいろなことがあったが、自分がどんな仕事をしているとき楽しい、やりがいがあると感じるかはやってみるまで分からない、というのは痛感した。それに気がついたことが良かったのか悪かったのかはまだわからないのだが、とりあえずわからないことだけは確かだ。
というわけで心の内なる声の赴くままにじたばたしたり、わーわーしたりすることにしたわけだ。このブログの標題の下に書いてある
Make some noise
とはそうした意味である。
2009-09-16 07:25
ただ単に引用しておきます。
「日本人はシステムやソフトウエアの設計・開発には向いていない。なぜなら、要件を決められないからだ。システムで何をする、どう実現するということを、選択肢を示して選んでもらおうとしても決めることができない。どの案にも一長一短があり、どれも捨てがたいといって、結局、要件が定まらない」と言うのです。
さらに彼はこう付け加えました。「ようやく要件が決まったかと思ったら、今度は『私が責任者だ』という人が次々に出て来て、決まったはずの結論を覆していく。こんな人たちに情報システムを作ることはできないし、我々も仕事にならない」
via: 第28回 日本企業を見限ったインドの"システム屋"から学んだこと - ダメな"システム屋"にだまされるな:ITpro
しかしなんですね。大きな日本企業では"判断を下さない"ことが一種の美徳というか道徳になっているのではないかと思える場合がある。
こう言う時に日本語は実に便利で、なんだか結論を曖昧にする方法には事欠かない。同じ会議でも英語にすると、少なくとも論理がむちゃくちゃなのはよくわかるようになる。(状況の改善にはあまり役立たないけど)
2009-09-15 07:04
古い私のような人間からすると、最近のLinuxの普及には驚かされる。サーバーだろうが、組み込み端末だろうが、最近はなんでもLinuxだ。(もちろんそれ以外もあるけどね)
でもってLinuxにさわるとなると結局viから逃れることはできない。最初にviを使ったのはMS-DOSの上でだった。"なんだこの使いにくさは"と最初は思うのだがそのうち慣れる。
会社にはいり、これでviのような非人間的なエディタとはおさらば、と思っていた。それから8年ほどしてまたプログラムの仕事につく。今度はemacsだもんね、と思っていると"メモリが足りない"といわれviに戻る。
というわけで結局最後はviに戻ってしまうわけだ。でもって昨日こんな発言を見つけた。
viとかシェルとかにアフォーダンスは皆無なのに誰も文句を言わないのは何故か
via: Twitter / Toshiyuki Masui: viとかシェルとかにアフォーダンスは皆無なのに誰も文 ...
アンチユーザビリティ論者の私(今決めました)としてはこの言葉に反応せざるを得ない。デザインがどうの、アフォーダンスがどうのといったところで結局viなのだ。
ユーザビリティの観点からみればviは最悪に近い。しかし誰もが使っているし、必ず使える代替手段が広まる気配もないようだ。なんだかんだ文句をいいながら誰もが使っているのである。
おまけに"なれれば早い"のも事実である。したがって私はこう主張したい。(前にも言ったような気がするが)ユーザビリティだのアフォーダンスだの金科玉条のごとく振り回すのは馬鹿げている。
今から2年前のことだが
"使っているユーザを美しく見せようと思えば、CUIを極めるインタフェースを考えるべきだ"
と主張したが、親会社から定年間際で落っこちてくるような人間にはもちろん理解されなかったなあ。
2009-09-14 07:44
こんな記事を見つけた
1、とりあえず同意すること。否定しない
2、「~はどう思う?」とかいわれたら、相手にも聞く
3、1,2を実践したあとは冗談 でも何でもいってよい。といっても制限はある
とりあえず同意すること。否定しない
via: 女性にとりあえず嫌われない3パターンの話し方
女性の相談ごとは"相談"ではない。同情し、同感し、話を聞いてほしいのだ。ああ、このことを20年前に悟っていればなあ。某マンガによれば、ホストの会話術の基本もこれだというし。
うん。うん。うん。それは旦那さんが悪い。
だと。
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と絵にかいたような"後悔"をしていても仕方がないので、Goromi-Tubeで見つけた動画をはっておく。
Penn Stateでやったショートのことだが、結構笑える。
2009-09-11 08:25
私のようなオタクからみると、今回のイベントの最大の目玉はJobsであった。相変わらず痩せすぎと思うが、肝臓移植がなければ死んでいたのだな。
さて、イベントについて書かれた記事を読もう。
そうしたなか、最近Appleが前面に押し出しつつあるのが携帯ゲーム機としてのiPod touchだ(広告キャンペーンについては後述する)。
シラー氏のデモではソニーのPSPと任天堂のニンテンドーDSを引き合いに出し、touchならではのメリットを強調する。また、同氏はソフトウェアの値ごろ感や入手性についても触れ、ソフト(アプリ)の数やラインアップの面でも有利だと主張する。
via: Appleイベント現地リポート:一新されたiPodファミリー、スペシャルイベントの真の主役とは!? (1/2) - ITmedia +D PC USER
現実問題として、iPhoneはすでに我が家ではゲーム機としての地位を確立している。正確にいえば
"子どもが退屈して暴れたり、眠りに陥るのを防ぐための有効なマシン"
となっているのだ。
子供はまだ小さいから、単純なゲームで十分楽しめる。最近さんすうが好きなので、簡単な問題が次々と出てくるゲームを与えておくと、いつまでもやっている。タマゴッチも好きだけどね。
ゲームに飽きたら、動画の数々を見せればよい。いつのまにかiPhoneに登録してある動画の半分は子供向けになった。先日バンドの練習に子供たちを連れて行った。最初は寝たり、走り回ったりしていた子供たちだが、さすがに3時間は長いようだ。では、これをもって外で座っていなさい。知らない人についていっちゃいけませんよ。
帰りの電車の中ではゲームが活躍する。おかげで眠って重たい子供を抱っこする必要もない。タッチ操作で適当に動くから幼稚園児でも操作に不自由はない。
いや、そもそものゲーム機としての性能が、という人はゲーム機であろうが携帯であろうが有限である人間の時間を取り合って競争関係にある、ということを考えるべきだ。コアなゲーマーが何と言おうと普及するものは普及する。
個人的には、電車の中でPSPを必死になって操作したり、DSでスタイラスを使っている姿は美しくないと思っている。理由はよくわからないがiPhoneを使っている姿はそれより少しましだ。携帯電話やPSP,DSからiPhoneに乗り換えてくれる人が増えれば、電車の中の風景が少しましなものになる、、とは期待しすぎかな。
2009-09-10 07:10
必ずしもその店やサイトを運営している人間が分かっているわけではない。
昔、売れる商品に絞り込んで効率化したことがあったが、
かえって売り上げがさがった。調べてみると、
客がフランフランにもとめていたのは「楽しさ」だった。
なのに、売れる無難な商品だけになってしまった結果、
楽しさが減ってしまって人が来なくなっていた。
via: きっと俺はミュージシャン : なぜフランフランは売れない「ピンクの水玉のソファー」を置くのか?
おそらくインターネットで簡単に買い物ができるようになった今、リアル店舗というのは自分たちの立ち位置を見直さざるを得ない状況にきているのだと思う。
欲しいものが分かっているのなら、ほとんどの店舗はAmazonに勝つことはできない。ではなぜ消費者は店に足を運ぶのか。
思考停止して
"いいものを安く"
に徹するのも一つの方法。そうでなければここで引用した例のように"そもそもお客様はなぜ店舗にくるのか"を探る必要がある。
なんとなく思ったが、これは"政党に何が求められているか"とも関係する話かもしれん。
2009-09-09 06:45
今、鳩山氏に対して非難の声をあげるべきである。
中国の大躍進政策を笑う者は
今、鳩山氏に対して避難の声をあげるべきである。
なんの数値的な裏付けもない、現実とかい離した"理想"。存在するのはその"理想"を追求したときに起こる悲惨な結果予想だけだ。
かくのとおり愚行が行われている時にそれを笑うのは難しい。
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というか鳩山氏はいったい何と闘っているのだろう。私はどうしてもそれが理解できない。
2009-09-08 06:56
本家ではまだ表に出してませんが転載です。
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デンゼル・ワシントンである。ジョントラボルタである。以上。
途中までは無駄がなく緊迫した展開が続く。New Yorkの地下鉄がハイジャックされた。全くの偶然で車両運行係が交渉役にされる。さて、どうなるのか。人質の運命は、それに犯人達は密閉された地下からどうやって脱出するつもりなのか。
ここまで観て
"をを、これは予想外の高評価か?"
という期待が高まる。しかしそこまでだった。後半がなんだかばたばたしているのだ。
デ ンゼル・ワシントン演じる"家庭のためにまじめに働いてます(ちょっと悪いこともしちゃったけど)男"が何故最後にそこまでの正義感を見せるのかがよくわ からない。普通の人なら最後は普通に逃げて警察行くでしょ。そこに至る犯人の逃亡方法も"ふーん"という感じだ。New York市内を爆走する警察車両とか、犯人達の結末のつきかたにも首をかしげざるをえない。ちょっととぼけた市長はいいと思ったけどね。
とはいえ
"甲高い早口でしゃべりまくる頭の良い犯罪者"
役を演じさせればトラボルタの右に出る人はいないのではなかろうか。(いや、もともと対象が異様に狭まってますから)またワシントンが最後に見せる"普通の人"の姿はとてもよいと思うけど。牛乳ぶらさげてお家に帰ろう。
この二人の名演により映画は引き締まったエンディングを迎える。しかしそこまでの筋に無理がありすぎて感動はできない。
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この監督はリドリー・スコットの弟 なのだな。トップガンとビバリーヒルズコップ2はいいと思ったが、Dominoはなあ。。私にとって余裕の-1800円映画だ。
同じ監督が作った作品でも私にとっての評価は大きくふれる。映画というものはいろいろな要素が組み合わさってできるものだから、どうでるかわからないのは面白いなあ。
2009-09-07 07:01
鳩山氏が首相に就任するとのこと。かくして随分と奇妙な発言をする人が日本のファーストレディーになることとなった。
オバマ嫁と比べたとき、、いや比べるのはよそう。それは意味のないことだ。しかし私が知りたいのは政権交代後も続く、メディアの民主党ヨイショである。
著書やテレビの発言から奇抜な部分を抜き出したものだが、英タイムズの社説は「日本は、仕事中毒の男と酌するだけの女と(欧米諸国に)みられがちな不可解な国でないことを示す手助けになる」と解説した。カタールの衛星テレビ・アルジャジーラ英語版も5日「世界の指導者並みに注目される、平均的でないファーストレディー」と紹介し、発言が「個性的でいい」と国民に肯定的に受け入れられていると伝えた。
via: <鳩山幸さん>外国メディア 奇抜さ注目も変化象徴と好意的(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
これが仮に麻生首相の妻だったとすれば、その論調は大きく異なっていただろうと思う。鳩山氏も資産家で庶民感覚などカケラも持ち合わせていないようだが、それを批難するメディアの声は今のところ聞こえてこない。
これは何に起因するものだろうか?その目的はなんなのだろうか?
2009-09-04 07:16
ここ数日ですごい数のブックマークを集めている記事がある。
それを読んでいくと、G.M.ワインバーグの本に書いてあった言葉が思い出される。
プロジェクトが危機的状況にあるとき、仕事優先とすべきかあるいは人優先とすべきか、という問いだ(うろ覚えで書いているので間違いかもしれません)
たとえばある世界的大企業は、ソフトウェアの開発が意の如く進まないとき、タコ部屋を社内に作り、そこにソフト開発会社の要員を全員収容。自分たちの監視付きで働かせる。これは典型的な仕事優先の考え方だ。
しかしそんなやり方は彼らの社内政治的に正しい、という以外の意味を持たない。ソフトの開発効率も品質も落ちる。つまりそれは自己満足のための手段であり、プロがとるべき手段ではない。(ちなみに彼らはソフト開発のプロではないのでそれでもいいのだと思う)
線形で測れるような単純な仕事以外の場合、そうした飴とムチモデルが働かないことは明白である。しかしそうした"飴とムチ"が使われ続けるのは、それが定量的に測定(何を測定しているかについては除外して)しやすいからでもある。この場合意味があるかどうかは別として何か数値は出てくる。世の中には意味がなくても数値があれば安心する人は多い。
If
Then式の報酬は、このような作業にはとても効果があります。単純なルールと明確な答えがある場合です。報酬というのは視野を狭め、心を集中させるものです。報酬が機能する場合が多いのはそのためです。だからこのような狭い視野で目の前にあるゴールをまっすぐ見ていればよい場合には、うまく機能するのです。しかし本当のロウソクの問題では、そのような見方をしているわけにはいきません。答えが目の前に転がってはいないからです。周りを見回す必要があります。報酬は視野を狭め、私たちの可能性を限定してしまうのです。
via: やる気に関する驚きの科学
この素晴らしい講演が誰の心に届くのだろう?誰が本当に耳を傾けるのだろう?
2009-09-03 07:06
Facebookである人が書いていたコメントをそのまま題名に。いや、私は真面目にそう考えているんですよ。
話としてはこうだ。つぶやきというのは基本リアルタイムで書き込むものだ。それは断片的な言葉であったり考えであったり。それゆえ面白いとも思うのだが、
"じっくり考え、文章を作り上げ公開する"
はどこにいったのだ?
きの合う仲間内だけで居心地のよい"浅い会話"が飛び交う。日常会話とはそうしたものだ、ともいえるだろうが人間が持っている時間は有限なのだ。つぶやき、それを入力閲覧している時間が増えれば何かが減る。
このブログで私は何度か"ビットの泥沼"という表現を使っている。Twitterはその最たるものだと私は考える。
敬愛する"それだけは聞かんとってくれ"に8年前に掲載された文章から引用する。
なんだか日に焼けてしまいました。もう26・・・お肌の曲がり角はとっくに過ぎているのに。気を付けなきゃと思いつつ・・・自然の成り行きに任せっぱなし・・・ついにシミ第一号が出来てしまいました。ちょ~ショック・・・少しはお肌を大切にしなくてはですね。
今日は国会議員水泳大会!!のはずが・・・大雨で中止となってしまいました。はりきってジャージ着て行ったのに・・・残念。
繰り返しになるが、これは二十六歳の市井の女子の人「原陽子」のサイトではない。代議士「原よう子」のサイトなのである。
断っておきたいのは、私には「原陽子」という私人を貶めるつもりは毛頭ないということだ。「原陽子」という私人がどこで何をしようとそんなことはどうでもよい。ただ、公人たる「原よう子」を考えるときにこれはちょっとものすごいのではないかといいたいのだ。
この人の文章が特別というのではなくて、今どきの二十六歳の言語活動というのは、だいたいこんなものなのだろうか。いや、そうだとしても国民の代表の書いたものとしてはちょっとものすごいことだ。
ちなみに手元にある「きけわだつみのこえ」には二十二歳の戦没者の次のような文章がある。
平生の修養浅薄にして大事に臨み、いまだ心平かならず。真に恥ずべきの至り。唯云ふ可きを言はず思ひし事を語らざるは稍淋しき感有りと雖もさしたる事なし。そは我内の思ひのみ。心に鬱積するは母心弱くして我身を思ひ心を痛む其の事のみ。今の我心は遠く万里に演習し而も再び還らざる構なり。願はくば父母共に我れを案ずる勿れ。
この二十二歳というのは算え歳だろうから実際にはもう少し若かったろうに、この違いはどういうことだろう。僅か六十年で言語能力というのはここまで違ってくるものなのだろうか。
via: Sorekika 【第355回 はらさんに五千点】
私も含めて言語能力の衰えというものは今世紀初頭においてもすさまじかった。Twitterやmixiはこの傾向を加速させるのではなかろうか。
とかなんとかいいながら私もTwitterを閲覧することが多い。理由は簡単。Twitterでしか情報を発信しない面白い人がいるからだ。また列車の運行情報も見たいからね。
でも自分でつぶやくことはしない。