マグロ漁船の教え

2009-03-31 07:49

こんな文章を見つけた。

「便利になれば幸せになる、というのは全部幻ぞ」 むしろ不便な方がみんなで助け合ったりして、心の中に幸せを感じるし、難しいこともできるようになるんど、と漁師さんは言います。便利ばかりを追求して人とのコミュニケーションを考えないようになるのは問題だ、という考えですね・・・確かに。

http://www.ideaxidea.com/archives/2009/03/maguro_book.html

元ネタはマグロ漁船に乗り込むことになった男が船長さんから聞いた話なのだそうな。

便利になれば幸せになる。これは正しくもあり間違ってもいる。つまるところ幸せというのはそんなに簡単なものではない。

たとえばこうだ。水をひねれば清潔な水がでてくる。スーパーに行けば食料品が並んでいる。これは驚くべきことであり、便利この上ない。誰もが井戸や川から毎日水を運んでくる(しかも不潔な)生活には戻りたくない。

戻りたくはないのだが、じゃあわれわれがそれによって毎日楽しく暮らしているか、といえばそうではない。小さな携帯画面をひたすら眺め、そしてそういう人たちは大抵の場合笑顔を浮かべていない。

ユーザインタフェース、ユーザインタラクションの研究においても

便利=幸せ

という単純は図式はよく見受けられるし、

精度が高い=幸せ

というもっと単純化した図式もよく見る。

これらにはどうしようもない危うさがつきまとっているのだが、そこを理解したり掘り下げようとする人はあまり多くない。

何が幸せかをまともに考えだすと”じゃあ一旦不幸せにして、そこから普通の生活に戻そう”とか言い出すのでまともに考えないほうがいいのかもしれない。しかし少なくとも

”精度が高い”=幸せ

の図式は間違っている。もうちょっと控え目にいえば範囲が狭い。
このことは主張しておきたい。


職場の人間関係を良好にするために

2009-03-30 07:07

一番大事なのは”宴会”である、という信念を持っている人がいる。

前に勤めていた会社がその典型例だった。とにかく宴会をやり、一緒に夕飯を食べることが人間関係を良好にするため必要だ。それに出席しない人間は非難されるし、管理職になれば自分から部下を誘うことが”期待”される。

以前からそうした信仰には疑いを抱いている。確かに宴会という場でしか離せない本音もあるだろう。しかし会社生活のほとんどは宴会ではない。その”本業”を放置して宴会三昧もないものだろう。(これは特に前勤めていた会社にいえることだが)

そんなことを考えている時こんな文章を見つける。

時間を奪われて、拘束されるのは、仕事である以上、しかたない。ならば、どうやってその時間を楽しく過ごせるかが勝負だ。楽しければ、人のモチベーションは必然的に上がる。ではなにを楽しみとすべきなのか。そりゃ仕事だろー、仕事しに来てんだから。

(中略)

こうした作業を俺は地道に繰り返した。あいかわらずプライベートの会話なんかはしない(まったくしないわけじゃないけど、喜んでするわけでもない)。俺は仕事のためにここにいる、という一点は崩さない。実際、別にだれと親しくなりたいわけでもないからだ。

 現在でも俺はこのやりかたを貫いている。それで、なんとか回っている。飲み会とかいっさいやってない。

http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090328/1238247995

今改めてこの文章を読み返すと、宴会至上主義を信仰している人たちには共通点があることに気が付く。仕事を意義あるものにし、それにより喜びを感じてもらうための努力を無視している点だ。それが基本線であり、そのためのノミニケーションは大いに有効と思うのだが、基本線なしで宴会ばかり繰り返されてもねえ。

というわけで近日中に前の会社での飲み会に誘われたりしているのだが、ウーロン茶を注文しよう。金払って悪酔いするのはいやだ。


20年の時を超え

2009-03-27 07:26

北朝鮮がミサイル発射の構えを見せている。

しかし、福島氏は、「当たらない場合は国益を侵害し、当たった場合でも単なる人工衛星だったらどうなるのか」などと迎撃批判を延々と続け、野党席からも失笑が漏れた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090326-00000562-san-pol

日本をミサイル攻撃から防衛するシステムスタディについて聞いたのはちょうど20年前だ。(もうそんなになるのか。。)

国会では政治屋がお笑いにしているようだが、話は重大である。というか私が知る限りPAC-3が実戦で使われるのはこれが初めてではなかろうか。SM3と合わせ、関係者はこれから眠れない日が続くだる。そして結果がどうあれ北朝鮮が発射した後も眠れない日が続くだろう。

東北の上をまたいでミサイル発射したのは私が最初に職探しをしている時だったから、11年前か(もうそんなになるのか。。)

彼らが発射するものがミサイルだろうが、ロケットだろうが大した違いはない。問題はそれがどこに飛ぶか、どれだけ飛ぶかたぶん北朝鮮も予測できない点だ。一番いいのは発射台付近で爆発することだが、そうなると北朝鮮のミサイル(もしくはロケット)関係者の首が飛ぶだろうな(文字通り)

かくの通り日本海をはさんで多くのエンジニアが不幸になるこの出来事。やめておけ、と言いたいが私がここで言っても何の効き目もないのはいつもの通り。


WBCという大会で

2009-03-26 06:56

イチローが活躍したらしい。こういうことが起こると、さっそくこういう記事が出る。

イチローの言葉に見る人生のヒント5選 多くの人たちが見入ったWBC決勝戦。日本の優勝の立役者は、やはり最後の最後に活躍を見せてくれたイチロー!と言っても過言ではないでしょう。WBC優勝にあやかって、イチロー語録から人生のヒントを見出せそうな言葉5選をピックアップしました。

http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0903/25/news050.html

何か一つの分野で傑出したことをした人は、他の分野にもあてはまる知恵を持っているに違いない。

こういう思い込みは私の中にも根強い。

しかし特にプロ野球選手の言葉はこうした思い込みを打ち砕くのに役立ってくれる。たとえば横浜に佐々木という投手がいた。10年ほど前横浜が優勝した時、彼の活躍はすごかった。

しかしそのあとの言動を見ているうち”ああ、この日とはピッチャーとして優秀なだけなのだな”ということを感じることが多くなった。その佐々木に言わせるとイチローは”本当に野球小僧”tのこと。

過剰に”何かを学ぼう”などと考えるには私は年をとりすぎたのだと思う。

もう少し客観的な証拠をあげれば、名選手が名監督になるわけではない、というよく知られた事実がある。日本のプロ野球では名選手を監督にするのが好きだし、それで観客動員できたりするのだが実績は伴わない。

いいかげんこうした”ここから何かを学べるはずだ”からは距離を置きたい年頃である。


映画評:ワルキューレ

2009-03-25 06:56

というわけでネタのない日は本家から改変しつつ転載。

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会社勤めをしているとよくあることだが、どうしようもなく無能な上司が無茶苦茶な命令を下す。さて、どうしよう。逆らえば”反抗的な社員”として粛清される。同意すれば自分を含め数人の仲間が無駄な事をさせられたあげくより酷い状況に直面することになる。

その度に”まあこれで人が死んだり、決定的に不幸になるわけじゃないんだから”と自分に言い聞かせる。しかし第二次大戦中のドイツにあってはこの矛盾はそう片付けられるものではなかった。かくしてヒトラー暗殺が計画されるのであった。

秘密裏に仲間を集め、計画を練り、爆弾をしかける。暗殺後どのようにベルリンを掌握するのか。誰もが結末を知っているとはいえ、映画として見せる要素は満載。さて問題です。これだけ興味深い題材を扱いながらなぜこうも退屈な映画ができあがるのでしょう。観ている間中その事を考え続ける。

暗殺計画に加担した人たちの志は良しとしよう。しかしそこにはどうしようもない杜撰さもあったはず。そこを丁寧に描いたほうがよかったのか。トム・クルーズは主人公の遺族から酷評されたとおり、固い顔で”かっこいい役”を演じ続ける。その単調さがまずかったか。

あるいは

”これは生きて使命を完遂しろという神の声だ”(うろ覚え)

というヒトラーの恐ろしい言明を強調すれば、世の中で”奇跡がある故神は存在する”などと言っている人間に冷や水を浴びせることになったかもしれぬ。

などといろいろ考えるがあくびは止まらない。クライマックスで隣にいた人の携帯がのんきな演歌を奏でる。みなちょっと眉をひそめただけで、”映画が台無しだ。金返せ”とは思わない。もうとっくの昔に払った金と時間は台無しになっていたのだ。

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というわけで本棚に存在してた”ヒトラー暗殺計画”(中公新書)を読み返しています。いや、実はこれ買っただけで読んでなかったかも知れん。中身全然憶えてないもん。

確か東条英機も暗殺計画があったとは思う。しかし彼が”平和裏”に失脚した後も情勢はそれほど変わらないかった。

伊藤正徳が端的に述べていたことだが、昭和20年前の日本には”率いる人”がいなかった。軍部が台頭というがその軍部というのは誰のことなのか。調べてみれば、強硬派が宗旨替えをしても、また別の強硬派が現れる。結局頭がどこにあるのかよくわからない。こういう時は頭がないと想定するのが正しい。

あるいは戦場のメリークリスマスにあった

”一人では何もできず、集団で発狂した”

というのも状況をよく表す言葉かも知れぬ。


デザインをエンジニアリングしよう

2009-03-24 07:18

というわけで昨日見つけたこの記事

そう、Googleでは2種類の青色のいずれかで決めかねたら41の中間色をテストして最もパフォーマンスのよいものを選ぶというのは事実なのだ。先日、境界線の幅を3ピクセル、4ピクセル、5ピクセルのいずれにするかが問題になったとき、自分の意見を証明するよう求められた。このような環境で仕事をすることはできない。そうした些細なデザインの決定を論じるのにはもううんざりだ。

http://japan.cnet.com/news/biz/story/0,2000056020,20390324,00.htm

Googleはすべてをデータに従って決めることを公言している。それはあるいは”愚かな高位者による決定”を避ける意味からも有効なことかもしれない。

また一部の問題にはそうした解決方法が有効なこともあるだろう。デザインがしっかり決まっていてあとは細部をつめるだけ、という場合にはそうしたアプローチが意味をもつかもしれない(有効とはかならずしも言えないが)

しかしこうしたアプローチに”げっとなる”気持ちは多くの人が共感するところだろう。しかしその”げっとなる”理由を説明するのは容易なことではない。

私は Google のデザイン決定はひとつの極論へいっているような気がします。データは尊重すべきですが、データが答えではありません。例えば数字だけでは、利用者のそのときの気分や、使っている状況、環境など見出せません。そしてそうした見えない『変数』がサイトの使い方に大きな影響を及ぼします。また ABテストをはじめとしたデータ収集も有益ではあるものの、ひとつの囲いの中での調整にすぎず、利用者に気付きを与えることが出来るようなソリューションにならないこともあります。ソリューションによっては今までとは全く違うアプローチが必要なときもあります。

http://www.yasuhisa.com/could/article/emotionaldesign-datadrivendesign/

私流に↑と同様の論旨を述べれば以下のようになる。

すなわち目的とする関数が変数に関して偏微分可能であり、その解析によって最適値を求められると判明している場合、こうした数学的、微分的なアプローチは有効であると考えられる。

ここで偏微分可能というのは、一つの変数だけを変化させた場合、関数の値がどのように変化するか有意に評価できることを指す。

しかしこの”目的関数の偏微分可能性”を必要以上に拡大して使うのは時として大間違いを引き起こす。そもそも解に大きな影響を与える変数が式に取り入れられていないかもしれない。関数は偏微分不可能なものかもしれない。探っている場所とは全く異なる場所に最適解が存在するかもしれない。(つまり局所最適に陥っているかもしれない)

やっかいなことにデザインの”美しさ””使いやすさ”の問題は一部の場合を除いてそのようにうまく定式化することはできず、かつ評価関数は偏微分可能ではない。Googleはそうした領域にまで微分解析を適用しているのではないか。

いや、こういう

”目的関数の偏微分可能性”を滑稽なまでに拡大適用する、というのはヒューマンインタフェースの研究における評価ではよく行われていることなのだけどね。

英語で書かれたヒューマンインタフェースの雑誌にこんな漫画がのっていたのを思い出す。年をとった教授が発表を行っている。

”数か月にわたる慎重かつ精密な評価の結果、案Aのほうが案Bより優れているという結論が得られた”

質疑応答の時間になり、学生がこう尋ねる。

”もし、、その、、なんていえばいいかな、、両案ともカスだとしたら?”


SoftwareにSeriousな人がHardwareを作るべきだ

2009-03-23 07:00

というのはiPhoneの発表時に、Jobsが引用したAlan Kayの言葉。

こんな記事を見つけた。

Dell's new prototypes, capable of running both Windows Mobile or Google's Android, simply didn't interest the carriers.

デルの新しいプロトタイプはWindows MobileとGoogle Androidを両方実行することができる。しかしキャリアにはそっぽを向かれた。

http://www.appleinsider.com/articles/09/03/21/dells_iphone_killer_rejected_by_carriers_as_too_dull.html

Dellはその製品カテゴリーを広げようと様々な試みをしている。しかしSmart Phoneマーケットでは少し勝手が違うようだ。

User ExperienceはWindows-Microsoftがコントロールし、それを実行するプラットフォームをいかに安く、確実に供給するか。そうしたレースにおいてDellは確固たる地位を築いた。

しかしSmartPhoneの世界では、まず門前払いを食らったようだ。

SmartPhoneの分野において、広い意味でのソフトウェアの重要性がますます高まっているように思える。iPhoneはVer3.0に更新されるが、これにより、初代のiPhoneユーザもその恩恵を受けられる。

さて、日本の携帯電話メーカはどうするのかな。今までと同じように”築き上げた資産”にすがって開発をつづけていてくのかな。iPhone自体が成功だったかどうかは今の段階ではわからない。しかしとってつけたような”タッチスクリーン”機能を持つ日本の携帯電話を見るたび、それを開発させられる人たちの苦労と苦悩がしのばれるのだ。


インターネットにおける情報との接し方

2009-03-19 07:27

こんなブログを見つけた。

ネットは、既に認知している人により深いアプローチを計るのには長けているが、その商品を全く知らない人に認知させるのが苦手だ。テレビのように、強いインパクトで商品を認知させることがほとんどできない。 最近では、純広告(バナー広告)よりも検索連動型広告(リスティング広告)の方が盛んな印象だが、これも、そうした傾向を反映しているのではないだろうか。つまり、闇雲にアプローチするバナーよりも、既に興味を持っていそうな人にアプローチするリスティングの方が、期待されるような効果を得やすいのだ。

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20090318/1237360493

我田引水的な言い換えをすると現在のネット上の情報とのインタフェースでは

”存在を知らない情報”

にアクセスすることができないのだ。

そうした意味においてTVは偉大だ。これはTV上で情報を提供しようとしている多くの人、企業が理解していないことだが、TVの本質は

”基本的に操作せずに、情報を垂れ流しにする”

ところにある。(だからTV画面上であれこれ操作させようとする試みは出だしから間違っている、と断言する)

それゆえ、ユーザは知らなかったことを”たまたま目にする”ことができるのだ。

対してインターネットでは”検索”という行為が頻繁に行われる。しかし私と同じくらいの年代の人は少し考えてほしい。インターネットが普及する前、そもそも検索という言葉を聞いたことがあっただろうか?

検索の精度を向上させることは重要だし、Googleの絶えざる技術革新には感謝させられることが多い(最近は、たいていのミススペルは自動的に修正して結果を表示してくれる)

しかし検索はあくまでも情報とのインタフェースの一種にすぎない。他にもいろいろなインタフェースが必要なのだ。インターネット上に無尽蔵に存在する情報と人間との間のインタフェースを創造することにより、もっといろいろな情報との出会いができるはずなのだ。


我はロボット

2009-03-18 07:14

というわけで最近産総研が作ったロボットが話題になっている。

独立行政法人産業技術総合研究所(産総研)が、身長・体重から関節の位置に至るまで、日本人女性の「平均値」を参考にして人間型ロボットを開発したことが話題になっています。しかし、ブックマークコメントをよく読んでみると、むしろユーザーの興味は、そんな平均的体型の上についたリアルな頭部に集まっている模様。

http://b.hatena.ne.jp/articles/200903/56

理由はわからないが、このように”リアル”な顔をロボットにくっつけるのは日本人だけがやることのようだ。(私が知らないだけですか?)

あれこれ理由はついているが、私はこうした傾向にどうしても変態的な願望を感じてしまう。もっといえば作った人間とはあまりお友達になりたくないな、と感じる。自分の嫌悪感をうまく説明することはできないのだが。

090316-00001.jpg
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もっと創造的になることはできないのだろうか。人間のようでありながら、絶対に人間ではありえない顔つきとか。そうしたものを実現しようとは思わないのだろうか。

私には産総研が作った芸のない顔と姿をもったロボットは彼らの創造性、ひいては広い意味での知性の欠如を示しているように思える。彼らにとってロボットは単に歩き、”あらかじめプログラムされた作業を行う”機械にすぎないのではないだろうか。

二足歩行を行い、人間と同じ形態を持っていることに何の意味があるのか。(決められた仕事を行うだけだったら、そうした形態でないほうが効率的な場合が多い)そうしたロボットを作ることに何の意味があるのか。

そうしたロボットの位置づけを深く考察することなしに、とりあえずアニメ調の形態や、幼女の顔を乗せてみる。顔なんて付け足しか、宣伝材料です、と思っているのかな。


視聴率の1%に一喜一憂

2009-03-17 07:33

というのは、TVに関して私が聞いていたことだ。しかし、昨今は(ようやく)そうではなくなってきたらしい。

テレビはこれまで、視聴率ばかりを追い求めるあまり、ROIをないがしろにしてきた。しかしそれは、結局お金を使わない人ばかりが楽しめるような番組を作るということにつながって、マーケティング能力は下がる一方だった。おかげでスポンサーはどんどん離れていき、昨今のテレビ不況の一つの要因となった。 そのためテレビも、これからは視聴率――つまり「どれだけ多くの人が見たか」ではなく、ROI――つまり「どれだけスポンサーした企業の売上げが伸びたか」ということを見ながら番組を作らなければいけない時代になった、ということだった。 http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20090316/1237188373

いまさら、という気もするがこれが当たり前のことなのだと思う。
広告というのは非常に効果が測定しにくいものだと聞いたことがある。全体的なイメージアップってそれがどれだけ売上増に貢献するのか。それでも他がやっていればこちらもやらなくてはならない。

そんなことからバブル的な高騰を続けていたTVCMの値段もようやく下落することになるのだろう。

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TV局というところは社員の給料がやたら高いところである。それでいながら、別に番組を制作しているわけではない。

私が考えるところの”腐った産業”には共通的な特徴があって

・必要以上に多重な下請け構造
・頂点に位置する人間は、何も生産的なことをせず高い給料を得る。
・本来の技術、技能ではなく、名前、既得権益などが受注に結びつく。

この図式はTV業界に一番よく当てはまる。(ITゼネコン、建築のゼネコンも同様だが)こうした腐った構造がなぜ生まれるかについてはきっと世の中に研究している人もいるのだろう。

こうしたTV業界の変質と、2011年地デジへの移行が同じ時期に起きたのは実に興味深い。いや、どちらかがどちらかの引き金というわけではなく、単に重なっただけだと思うんだけどね。過去にも”これから数年は実に興味深い”と書いたが、その期待は今のところ外れていないようだ。うまくいけば、腐った構造が一つ崩壊するのを目の当たりにできるかもしれない。


Experience Designと言葉を振り回す前に

2009-03-16 07:28

こんなブログを見つけた。

大勢の人たちがハーレーダビッドソンで働いている。耳寄りな事実を紹介しよう。彼らの中には、自分は「モーターサイクルをつくっている」と思っているバカはひとりもいない。

もし「モーターサイクル」でないと言うなら、それは何だ?

「経験」ではどうだ?

”ハーレーの大物ボス”はこんな説明をする。「われわれが売っているのは、43歳の会計士が黒いレザーのライダースーツに身を包み、小さな町々を走り抜け、周りの人たちに恐怖を与える、そんな力だ」

何だって?

「経験」だよ「経験」、わからずや!
http://kojiroby.tumblr.com/post/86149870

”モーターサイクルを作っている”をバカと言い切れるだけの人間ばかりが働いている会社、というのは実に興味深い。

ほとんどの会社はExperience Design だのなんだの言葉だけ振り回しておいて、部品や製品を作っているからだ。

こうした”経験を売っている”と言い切れる人ばかりがいる会社と部品を作っている会社の差異はなんなのか。


言葉でいえば”文化”ということなのだろうが、この”文化”というものは説明が難しい。そういえばコンサル企業の面接に言って”企業文化が違うせいです”といったら、”企業文化とはなんですか”とずいぶんつっこまれたことがあったなあ。


ビジョンの恐るべき威力

2009-03-13 07:13

昨日こんなブログを見つけた。

俺、この「ぐらんぱるぽーと」を動かしてる原動力がなんなのか、ずっと車のなかで考えてた。で、これは憶測。あくまで憶測。これ、どこかにきっと「無私の人」がいると思うのね。その無私の人の原動力は「伊豆を再生したい」だと思うの。伊豆に観光客を呼ぼう、魅力的な場所にしよう。そして、そうした無私の人の努力のあとに、人ってようやくついてくる。つまんない話なんだけど、そういう結論にしか、ならなかった。
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090312/1236816203

私が知っている別の言葉でいえば、ここで存在が予想されている”無私の人”にはビジョンがある。自分が利益を得たい、ではなく伊豆がこうなってほしい、という明確なビジョンが。

この”ビジョン”というのは具体的な”こうなってほしい”という姿なのだが、たいていの人がこれを持っていない。あるいは持っていたとしても”自分がえらくなりたい””自分が利益を得たい”というものである。そんなものには誰も関心を払わない。

そして時々ではあるが、個人の欲望を超えたビジョンを持っている人がいると、↑のブログに引用したように恐るべき事態が起こる。

なぜ私がここで”恐るべき”と書いたかといえば、そのビジョンが間違っていても、人をひきずってしまう力があるからだ。

たとえばヒトラーを思い起こそう。彼の私生活が大変質素なものであったことはよく知られている。そして彼にはビジョンがあった。それに人々が同調してしまった結果は今日誰もが知っている。

最近の例をあげれば、小泉首相にはビジョンがあった。郵政民営化というやつだ。それが本当に意味のあることなのかどうかは誰も知らないまま、その熱意にひきずられ自民党は大勝した。彼自身は民営化された郵政の総裁に収まろうなどとは考えもせず引退を表明した。

かくのとおり無私のビジョンというものは、強力であり、恐ろしいものである。最近なにかと話題の小沢君は

”政権交代をすれば君も女の子にモテモテ”

と連呼することで、そのビジョンを実現しかけた。何一つ建設的なことをしない民主党の支持率がどんどん上がっていく様は、一種恐怖を催させるものであった。

しかし彼の場合はたしてそれが無私のビジョンなのか、否かがよくわからない。結果として人々を巻き込む力もいま一つのようだ。しかしこの先がどうなるかはよくわからない。


恒例のどきどき感

2009-03-12 12:57

というわけで、Mac userでよかったなと思う今日この頃。

米AppleがタッチスクリーンPCを開発中とのうわさが飛び交う中、3月11日には、ある情報筋の話から、Appleが10インチの新型タッチスクリーンを台湾企業に発注し、第3四半期に納入が予定されていることが明らかとなった。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0903/12/news041.html

NetBookなるものが話題になってから"でAppleはどうするの”という点については何度か話題になっている。

Appleのコメントを総合すると

”芸がないNet Bookはつくらないよ”

だけは確か。つまりLeopardがそこそこ動く小さなコンピュータは作らない、ということだ。

iPhoneより大きくAppleが必要最小限と考えているMac Bookよりは小さい。さて、その大きさのコンピュータをどのような位置づけで出してくるか。

別に噂として存在しているTablet macに関してもだが、Gates君が一時入れ込んでいたTablet PCのようなことにんはならないに違いない。あれは実際に触ってみると使い方に非常に困る代物だった。結局何がうれしいかわからないのだ。

そしてMicrosoftの多大なる肩入れにもかかわらずいつの間にか誰も話題にしなくなった。(今も存在してるかどうかすら知らない)

Appleの意図を予想してあてた試しがないので、外れることを予想であれこれ考えてみよう。

Q:それはLittle Mac Book なのか、それともBig iPhoneなのか。
osが何かとは全く関係ないレベルでどのような位置づけのデバイスになるのか。あるいはMac Kindleなのか。

10inchモニタ+iPhoneをドッキングさせてiPhoneではどうしてもできない快適な操作を実現するとかね。ドッキングはDuo以来ご無沙汰なので、この可能性は薄いな。。

一つだけいえるのは、小ささと”ポケットに入る”こと以外意味のないVaioのようにはならないだろう、ということだ。

さて、楽しみ。


映画評:おくりびと

2009-03-11 07:10

ネタのない日は本家から改変しつつ転載。

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ようやくオーケストラのチェリストになった男が、突然職を失う。故郷に帰り”とりあえず話だけでも”と応募した職は納棺職人だった。 というわけで、葬儀屋の下請けとして納棺をする日々が始まる。

白い死体の顔が化粧を施されることによりあたかも眠っているかのように美しくなる。それは厳粛な儀式なのだが、ユーモアも含めてちゃんと描くところがすばら しい。日本の”芸能”にありがちな内輪受けの悪ふざけでもないし、アカデミー賞をとったということは日本人限定のウケでもないのだろう。

主役の本木がすばらしい。”すしくいねえ”とかいって踊っていた頃は単なる派手な顔つきの男と思っていたが、気弱な中に筋の通った男を見事に演じている。会社社長の山崎、それに事務の女性も見事な芸。

しかし広末某だけはどうにも体質的に受け入れられない。ここだけが単なる役者の地に見えるのだ。とはいいつつも脚本にそった演技はしているなあと思い後で調 べれば、彼女の部分だけはキャスティングの後に書き換えられているとのこと。なるほど、役者を念頭において書かれたキャラクターだったか。

もう一つ気になったのが、音楽の扱い。これは私だけの感想と思うが、音楽が鳴り響いたとたん、TVの2時間ドラマになる。安っぽく、わざとらしいのだ。チェロの美しい響きはそうした演出を要しないと思うのだが、そうでもないのかな。

などと残念なところはあるが、やはり葬儀というのは厳粛な儀式である。順番が反対になってしまうのは本当につらい。順番通りで、しかも天寿を全うしたと皆が 思っているときはどこか陽気ですらある。こうした事も含め、登場人物は台詞で語らず観ている物に何かを感じ、させ考えさせる。

だ からまあ細かい事は言わずに1800円かな、と思っていた。しかし最後のクライマックスだけはその”押さえた演出”が緩んでしまったように思える。1/5 の時間でも伝えたい事は十分に伝わり、そしてそのほうが深い印象を残したのではないだろうか。

コロっ、フラッシュバックする父の顔、そして”父さん”。

それだけでいいではないか。映画館の中は”普段あまり映画にはこないとおぼしき”高齢の夫婦がたくさんいた。その中の一組が私の前に座り、”あれ、○○だ よ”とネタばれを大きな声でしゃべっていたことばかりが感動を損なったとは思わない。

などとケチを付けてはみるが、良い映画であったことは確か。というか”日本の芸能”などとまとめて”素人、幼稚、内輪受け”と考えていた自分の不明を恥じる。アカデミー賞受賞という”外圧”でしかこうした作品を知り得ないのは問題であるなあ、と反省する。


NTTデータ(に偽装派遣されていた)時の思い出

2009-03-10 08:14

について語りだすと長いし、暗いのでここでは書かない。ポルシェを3輪車の後について走らせるようなことをしていたので、長くはもたなかった、とだけ言っておく。

でもって

NTTデータという会社の唯一最大のアセットはその名前である。大規模公共工事を請け負ってきました。信頼と実績のNTTデータ。あと名刺もたくさん作れます。

なぜ今頃こんなことを書くかといえば、この記事を読んだからだ。

6. InfoSysの売り上げの90%以上が海外(60%が米国)。「官庁からの受注でおいしい思いをする」なんてことはできないのがインドのIT業界。

 なぜInfoSysがここまで急速に成長できたかが良く理解できる話だ。国全体としてはまだまだ発展途上のインドだが、ことIT産業の外貨獲得額という話で言えば、すでに日本を大きく抜いている。インドのことを「単に値段が安いだけの外注先」と見下していると痛い目にあう。

http://satoshi.blogs.com/life/2009/03/india.html

とはいってもNTTデータの優位は動かない。そもそも技術力なんてどうでもいいのだ。郵便貯金のオンラインシステムを発注できる先が他にどこがある?

だからこんなことも些細なこと。

先日のヘッドラインでも書いたように、NTTデータが運営しているブログサービス「Doblog」に障害が発生したのが2月8日の午前10時過ぎなので、かれこれ1週間以上が経過してしまうわけですが、いまだに復旧していません。アクティブユーザー数は約2000~3000とされており、それなりの規模のブログのはずなのですが、一体何が起きたのでしょうか? http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20090217_doblog/

そもそもNTTデータのブログサービスなんか使うほうが間違っている、なーんてことはこれっぽっちも考えていませんよ。


Microsoftの行き詰まり

2009-03-09 09:05

マイクロソフトが考えるところの2019年の動画があった。

今すぐ僕をその世界に連れ去って! 2019年と言わず…。

マイクロソフト事業部プレジデントのスティーヴン・エロプ(Stephen Elop)氏が27日、ビジネスカンファレンスで発表に使ったデモが話題です。マイクロソフトが考える2019年の未来図、動画タイトルは『2019』。
http://www.gizmodo.jp/2009/03/201910_1.html

↑のブログを書いている人は妙に興奮しているようだが、おそらくそう考える人はあまり多くないと思う。

町に情報があふれればどんなにいいだろう、と妄想を広げられたのは10年前の話だ。

今一番考えなければならないのは、情報といかに適切な距離を置くか、ということではないかと思う。誰もがひたすら携帯画面に見入り、親指をせわしくなく動かしているビットの泥沼状態はなんとかならぬものか。

とはいえ、このビデオにはあまり”擬人化エージェント”が出てこないなど、Knowledge Navigatorから進歩したと思える部分もある。いや、進歩というより、単なる”傾向”なのかな?


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細かい点だが、ここで引用されているビデオを見ると、ポインティングデバイスとしてスタイラスを使っているところと、指を使っているところが微妙に混じっている。

どちらにも適した使い方がある、と言いたいのか単にしっかりと考えられていないだけかのか。


ソニーの姿勢から学ぶこと

2009-03-06 08:10

あるページにこんなコメントが投稿されていた。

頼るべく実像を失った人間が次にすがるのは、 宗教と思想

それがとてもよく反映されていると思う
http://hatimaki.blog110.fc2.com/blog-entry-924.html

このページに掲載されている記事はソニー公式の”プレステ誕生秘話”である。もちろん公式ページにあるものだから宣伝文句の羅列なのだが、それにしても

「Cellの計算能力がパソコンの約20倍速いのを知っているだろう?」 「つまり、PS3を一台を持つと、パソコン約20台分の価値がある・・・」

↑を信じる人間を採用したい、、というのがまあ企業というものか。確かに”神の声”に疑問を持たず従う人間というのは、ある種の企業にとっては使いやすいかもね。

それで肝心のソニー本体だが

「エレクトロニクスの会社なので『ソニーらしい製品』を追求しなければならないが、次のステップ『ソニーらしいエクスペリエンス(体験)』を考えなければならない」── http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0903/03/news022.html

なのだそうな。この言葉に対しては、記事を書いた人が冷静な突っ込みを入れている。

平井氏はネットワークサービスの例として、PSNを通じたビデオ配信や3次元仮想空間「Home」、PS3向け情報配信「Life with PlayStation」などを挙げた。だがそれぞれ、ソニー独自のものとは言いにくい。ユーザーに歓迎される「らしい体験」の創出は、望めば可能というものでもない。

 優れたソフトの力があれば、“簡素な体重計”というハードウェアを世界で1000万台以上販売できることを任天堂の「Wii Fit」は示した。そしてWii Fitは「任天堂らしい体験」が評価されたソフトウェアでもある。「ネットワーク」や「体験」へのシフトに生き残りを賭けるソニーは、Appleや任天堂とのこれまでの競争からさらに上の、さらにシビアなステージでその実力を試されることになりそうだ。

既に実行し成果をあげているAppleと任天堂。いまだ“宗教と思想”の段階にあるソニー。ソニーはようやく戦いのリングが別の場所にあることを認識したが、そもそもそこまでたどり着けるのだろうか。


メディアの報道を見ていて思うこと

2009-03-05 07:17

特にTVの報道を見ていて思うのだが、彼らはあからさまに民主党に肩入れをしている。麻生首相が漢字の読み間違いをしたニュースと、小沢代表の秘書が逮捕されたニュースの取り扱いが似たようなレベルだ。

何かあればすぐ行われるはずの”緊急世論調査”もいまのところ行われている気配がないし。

嘘でも100回いえば本当になる、とはこの世の真実なのだろう。何もしていない小沢君がいつのまにか”首相にふさわしい人”の世論調査で一位になっていた。そう、彼らの意図はまさに実現しようとしていたのに。

私が知りたいのは、肩入れによって彼らが何を得ようとしているかということだ。

ちなみにブログでみかける”小沢擁護論”を読んでいると、田中角栄の擁護論とそっくりなことに気が付く。いわく、清潔な政治家など一人もいない。いわく、企業献金など大したことはない。

原理原則論に基づいて自民党を批判しているように思える人でも、民主党がこのようになるととたんに原理原則を放棄する人が多いのには驚かされる。もちろん自民党ぎらいが頭にあって、それを原理原則でカモフラージュしているだけなのだが。

そういう意味で言うと、共産党はぶれなくていいなあ、と次の衆議院選挙でも共産党に投票することになるのだろうか。


さらにちなみに、このような状況にあって一丸となって小沢君を支え続ける民主党というのも実に興味深い。私のような素人にはよくわからないが小沢君の”豪腕”とはそんなにありがたいものなのだろうか。ところで”豪腕”って具体的になんなんですか?やっぱり資金力ですか?


会社を辞めるタイプについて

2009-03-04 08:02

こんな記事を見つけた

このうち9人をピックアップ。彼らの上司に電話やメールをして現状を確認してみました。私が尋ねたことは次のようなことです。

 ・彼(彼女)は、なぜ辞めたのか?
 ・在籍中、どのような勤務態度だったのか?
 ・仕事への姿勢や周囲との関係作りはどうであったか?

 上司たちからは、すべてにおいて明確に返答があったわけではありません。むしろ、その多くは遠まわしな表現やぼかしたトーン(口調)でした。それらを以下のようにまとめてみました。

この記事にあげられている項目は確かに多くの場合私に当てはまっていたように思う。中でも”をを”と思ったのは以下の項目。

(g)全身から、妙な「ふきだし」が出ている(体から「毎日がつまらない」「会社に来るのが苦痛」というふきだしが出ているように感じる。それが一向になくならない。前に座ると、それに潰されそうな気がする)

これですよこれ。もちろん”ふきだし”がでていた時期ばかりではないのだが、こういう内面のネガティブな気持ちというのは”ふきだし”として相手にわかるのだ、というのは最近になってようやく自覚した。

笑ってしまうのは

(c)話を1時間以上した場合、30分以上経つと、「学歴」「学生時代」「趣味」などプライベートの話が多くなる。(自分の扱い、待遇などに不満を抱え込んでいる。そのコンプレックスを克服するために、「過去の栄光」にしがみつくか、「現実からの逃避」をする)

私の友達が前に勤めていた会社の社長がまさにこれだった。というか30分といわずに、3分たつと過去の自慢話になりそれが57分続く人だ、と友達はいつもこぼしていた。


いや、”会社を辞める人”のパターンに半分当てはまる人が社長の場合はどうすればいいんでしょうかねえ。もちろんサラリーマンたるものそうした環境にも順応しなければならないのだが。

韓非子を読めば、古今東西を問わずサラリーマンというものは上司にうまく阿るものだ、ということがわかる。阿るという言葉が悪ければ”気持ちよく仕事をするために、適切な配慮をする”ということ。つまり上司が1+1=5と言ってもそれを直接”間違いです”指摘してはサラリーマン失格ということである。

(a)会社に籍を置きながらも、自分の職場や上司、同僚らを冷めた目で見ていた。

職場を冷めた目で見ていてはいけない、と引用した記事の筆者は言う。愛は盲目、というからには職場を無条件に愛するのは冷めた目で見ない一つの方法だろう。

自分がやっている仕事への愛と、会社、上司への愛を両方持つことができればそれは幸せと呼ばなくてはならない。不思議なことに私の友達の話を聞く限り、この両者が両立することがないようだ。仕事を愛している時は上司が、、上司を愛している時は仕事が、、と、かくの通りこの世の中は住みにくい。いや、片方でも愛情をもてればそれは幸せというものか。


映画評:チェンジリング

2009-03-03 08:58

寒いので、本家から改変しつつ転載。

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アカデミー賞に多数ノミネートされている作品だから見に行きたい。しかし監督がなあ。きっと”ずどーん”とくる映画に違いない。はてどうしたものか。

映画の冒頭A True Storyと字幕が出る。Based on とかInspired byとかではないのだな、と考えていると1920年代のLos Angelsの風景が映し出される。住宅街まで路面電車が通っていることにまず驚く。今の高速道路まるけ(これは名古屋弁)のLos Angelsとは大違いだ。主人公たるアンジェリーナ・ジョリーはローラースケートをはいて電話交換手の間を走り回っている。

いきなり休日出勤を命ぜられたジョリーは一人息子を家に残し職場に向かう。(ちなみに今だとこれは法律違反のようだ)
夕方帰ってきたら子供の姿が消えている。そこからの演技は鬼気迫るもの。私の趣味ではない が彼女は美人だと思う。しかしいくつかの場面においてはその片鱗も見せない。疲れ果て、やつれたしわだらけの顔。しかし彼女の目には力が-時として異様なほどに-宿り続ける。

それはまた、そうした演技を見せるに足る苦難が彼女を襲い続けるということでもある。警察は子供がイリノイ州で発見されましたと言う。しかしその子供は明らかに人違いだった。行方不明の間どんな苦難にあったか知らないが、背が7センチ短くなるなどあり得ない。しかし警察は全くとりあってくれず、育児を放棄したいのだろう、と難癖を付ける。これくらいの理不尽な扱いは大企業の子会社では普通にあることだが、相手が警察となるとそうはいかない。警察の見解を押し付けようとする医師を送り込んでくる。それでも文句を言い続けると有無を言わさず精神病院に放り込む。精神病院では悪夢としかいいようのない日常が繰り返 される。

しかし最悪の状況においても彼女の目からは力が失われない。間もなく-このタイミングは映画的すぎると思うが-彼女には救いの手が 差し伸べられる。そして息子を誘拐したであろう犯人もつかまり、その裁判と警察の公聴会が平行して行われる。(ちなみにここでイーストウッドは映画化に際 して犯人の残虐性を少し和らげる改変を行っている。それは父親達の星条旗で惨殺された死体を映さなかったことにも通ずる良識と言うものかもしれないし、そのようなノイズは必要ないと思ったのかもしれない)

ここで大団円にしないのがイーストウッドの恐ろしいところだ。彼女の一番の願いは我が子と再会する事。しかしそれがかなわぬ夢なのか、あるいは可能性があるのかはどこまでいっても明確にならない。フィルムは回り続ける。人生というのもこうしたものか、と考える。”二人は幸せに暮らしました”でまとめられるような人生などある筈がないのだ。

ラストシーン、ジョリーは 希望に満ちた美しい笑顔を見せる。しかしそれは単純なハッピーエンドではない。家に帰ると彼女のその後について調べる。亡くなったのがいつかもよくわから ない事を知る。映画に触発されて誰かが本を書こうとしても、もう本人のインタビューを行う事もできまい。この映画がなければこの事件は誰にも知られないままだったか もしれぬ。

しかし彼女が生きている間に見せた力や輝きはあるいはこの映画に書かれていたとおり、あるいはもっと激しかったかのではないか。そんなことを考えさせられ た。悲惨な事件も真正面から描き、安易なハッピーエンドをつけたりはしないが観客の心を揺さぶる。イーストウッド+アンジェリーナ・ジョリーの力量には感嘆させられた。

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というわけで、ごんざれふアカデミー賞はベンジャミン・バトンとチェンジリングどっちでもいいです、と書いたわけだ。

しかし本家の結果を見ればスラムドッグ&ミリオネアの圧勝。日本での公開が楽しみだ。この2本を蹴散らすのも当然、と思えるような映画だといいなあ。


本日は短く

2009-03-02 07:59

私が過去に作って発表したGoromiだったり他のシリーズ。

時々”どうしてこういうものを作ろうとしたのですか”と聞かれることがある。

毎回適当に理屈をつけてその場をしのぐ。答えは単純だが説明するのは難しい。ここは他のブログからの引用でごまかそうと思う。

芸術表現というところまで広げると、少し話は別かもしれません。表現者になりたい、と思っているうちは決して表現者になれません。

世間的に成功しているいないに関わらず、表現し続けることが出来ている人の多くはそうせずにいられないからしているのです。

とにかくやってみて、やり続けることができるかどうかが分水嶺です。

続かなければとりあえずやめればよいと思います。まだ準備が出来ていないか、その方法が向いていないのです。

まずは爆発することです。太郎ちゃんがそう言ってました。

http://d.hatena.ne.jp/sivad/20090223#p1より

つまりは頭の中で時々どっかんと爆発するのである。それが適当な外部条件と結びついた時、Goromiが形になって外にでる。

外部条件がなければ、そのまま私の頭の中かEvernoteの一項目としてお蔵入りになる。今は外部条件がない。人が作ったものに文句をつけているより、自分で作ったほうが精神衛生的にもよいことはわかりきっているのだが。