2009-06-30 07:10
というわけでいきなり引用からはいる。
え、ロングテールとか、新しい経済のモデルとか、そんな話もあるけど、Googleはインタフェースとインタラクションの企業でしょ?って思うわけだが。
via: 知覚-行為デザイン論: Googleはユーザインタフェースの企業でしょ? 慶応大学渡辺氏
ちょっとしたことでもネットで探します。で、Trial and error、つまりちょっと検索キーワードを変えていって何回も繰り返し検索します。それだけじゃなくって、初めは「うまいそば屋」を探していたのに気がついたらいつの間にか論文を探していた、なんてこともあるわけです。僕の場合どっちかというと論文を探していたのにいつのまにか「そば屋」を探しているほうが多いですけれどね。つまり、このユーザインタラクションを支えているものは速度であり、シンプルさであり、インタフェースの構成要素、スニペットとかキーワードハイライトという理解のしやすさを支援する部分、それからアクセス性ですね。情報がもとのところになくなっていてもキャッシュで何とか確認できること、なんかだと思います。
ここで仮説です。こんなの違うよというのはいろいろなところでよく言われるので、だから妄想というタイトルにしているんですけれども、ひょっとしたらグーグルの人たちというのは、ユーザの要求とか自分たちの技術の限界というのをちゃんと分かっていたんじゃないのかなと。分かっていてああいうデザインにしたんじゃないのかなと。
via: WI2研究会-特別企画「インテリジェンスとインタラクションの統合に向けて」NTT(当時)松下氏
というか改めて引用してみると、松下氏の言葉ですべて語りつくされていることそ知るし、そもそも自分が過去に言ったことの繰り返しでもあるが、とにかく書いてしまう。
情報検索とはインタラクティブな行為である
なぜかといえば、ユーザは頭の中にきっちりと定義された"質問"を持っているわけではない
適当な単語を打ち込み、その結果を見る。入力する単語を追加したり変更したり、あるいはGoogleが提示してくるSuggestionににのったりする。これは"情報を絞り込んでいる"のではなく、こうしたインタラクションを通じてユーザは問題を頭の中で形式化していく。
つまり"一発でユーザがほしいものを出す"などということは原理的に不可能なのだ。なぜかといえば、ユーザはそもそも問題を持っていないから。持っていない問題に正解を出すことができるわけがない。
ではインタラクションを重視した検索とはどのように行われるべきか。
早さは本質的な意味を持つ。なぜならそうでなければインタラクションが円滑に行われずユーザの問題形式化を妨げるからだ。
しかしほかにも重要な要素がある。
たとえば人間と人間が一対一で相対している場面を想像しよう。多くの場合コミュニケーションは会話でなされる。
しかしこの"会話"というのは実に不便なコミュニケーション手段である。音は一次元でしか提示できず、同時に複数の候補を出すことができない。すぐに消えてしまう。
次にGoogleとユーザの対話を考えてみる。
断片的な情報からGoogleは可能性の高い大量の選択肢を提示する。10個の検索結果概要、それに加えて検索語の候補、あるいは追加すべき検索。
ユーザはこれら複数の選択肢の中から、次の選択を行うことができる。
こう考えると、コンピュータとの"対話"に安易に"音声入力/音声出力が究極のインタフェース"などという人間は、それらの技術のパッケージのセールスマンでない限り"いかがなものか"と思わざるを得ない。
つまり人間とコンピュータの対話は、問題の多い音声などという媒体に縛られるべきではないのだ。人間同士の会話が音声で行われるのはそれが最も適しているからではなく、進化の結果としてたまたまそうなっているにすぎない。
というわけで、人と人との会話をGoogle的に行うインタフェースなんておもしろいかもしれない(それが何を意味しているかわかっていないが)などと考えるのであった。
2009-06-29 07:20
前作をみて私はこう書いた。
結論から言えば「オタ向け記号の羅列」だった。ここで私が「オタ記号」と読んでいるのは以下のような物を指す。もってまわった空虚なセリフ、必要無しに細
かく描かれた機械、その動き、やたらと整った容姿を持つ女性キャラクター、それに中学生男子向けエロ要素。
(中略)
「何のことだか分からない要素を意味ありげにちりばめる」というのは怪しげな科学というか宗教がよく使う手だが、この映画がその古典的手法をアニメに応用して
いるということは分かった。実写を撮らせると馬脚を現す制作者も、なぜかアニメという枠組みだとその才能を発揮して「安っぽい謎」を演出するのだろう。こ
れをTVで中学生の頃に見ていれば、また違った感慨をもってこの映画をみることができたかもしれないが。
via: 映画評
もっと短くいえば、
"気持ち悪い"
というわけで今回の新作を見に行く予定はないのだが、たくさんの人がこの週末に映画を見、そして感想を書いていることは知っている。
驚くのはそれらのほとんどが"予備知識のないやつは見るな"的なスタンスで書かれていることだ。○○が××になっているとは、と書かれてもこちらは知らんよ。というかそれほど多くの人がみるアニメだったのだな。そういえば10年前つきあった某ベンチャー企業のVPが知っていた唯一のアニメがエヴァンゲリオンだった。
その中で唯一よむ価値があると思ったのは以下の評
なんかもう「固有名詞と細部の展開は変われども、やっていることはいつも完璧に同じ」 という意味で、ポケモン と同じく偉大なるマンネリの世界に突入している気がする。このまま十数年に一度適当に設定シャッフルして作り直すだけで、いつまででも続けられるのではないだろうか。
使徒のデザインだけは相変わらずセンスいいと感じる。特にあさりよしとお デザインの、たしかゼルエルって名前のやつ。
もちろんTVシリーズを一度も見たことがないという人には展開早すぎてイミフなので、お勧めしない。
via:
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 Evangelion: 2.0 You Can (Not) Advance』 オススメ度 8/10 神は細部に宿り給う
2009-06-26 07:11
ある人に教えてもらい、以下に示すビデオを見た。
ジル・ボルト・テイラーは 脳科学者が願ってもみない研究の機会を得ました 広範囲に及ぶ脳卒中の発作により 自分の脳の機能‐運動 言語 認識‐が ひとつひとつ活動停止していくのを観察しました 驚くべき物語です
via: ジル・ボルト・テイラーのパワフルな洞察の発作 | Video on TED.com
彼女が語っており、かつ主張していることの正当性を判断するだけの知識を私は持たない。しかし見て考えたことを書いておく。
なんでも右脳は外界をイメージとしてとらえ、現在だけに集中しているのだそうな。それに対して左脳はロジックを扱い、過去と未来を考える。
彼女は脳卒中により左脳の機能を失う。その時彼女は自分と外界との区別を失い、かかえていたストレスから解放され(現在しか存在しないからだ)非常な幸福感を得る。
しかし左脳の機能が一時的に戻ると自分が問題を抱えていることを知る。電話をかけなくては。しかし電話番号が思い出せない。ビジネスカードをみても、どれが自分のものかわからない。自分のものを見つけても、数字を読み取ることができない。その間にも非常な幸福感が何度か訪れる。
自省録のなかで皇帝はなんども自分に言い聞かせている。思考を現在だけに限れ。想像力を遠ざけろ、と。あるいはもし過去、未来について思いをはせるのであれば、誰もが死に、そして誰もその名前を思い出さなくなるところまで考えろと。
この皇帝の自問自答は左脳と右脳の戦いのようにも思える。話を聞いていると、人間右脳の機能が早く発達し、左脳は後から発達するのではないかと思えてくる。子供は基本的に現在だけに生きている。だから(これは私が言われてもっともいやだった言葉の一つだが)
"さっき泣いたカラスがもう笑った"
になるわけだ。そして大人にはできない"輝くような笑顔"を見せる。それもこれも思考を現在だけに限ることができるからだろう。
じゃあ幸せな右脳の世界に住んでいればよいかというとそうではない。それでは生きていくことができないのだ。ジル・ボルト・テイラーが生存し、その物語を我々に伝えることができるのは、ひとえに時々左脳が機能を回復し、電話をかけさせたからに他ならない。
なぜこうなったかは知らないが(きっと研究している人もいるのでしょう。タダで読める文章があれば誰か教えてください)人間は頭の中に二つのことなる人格を抱えながら生きている。両方の脳はつねにぎっこんばったんシーソーをしているのかもしれない。
おそらく私は左脳が強すぎる。しかし右脳にはちゃんと言いたいことがあり、"理屈からいえばまったく正しいが、どうにも気が進まない"という状況が作り出されているように思う。
しかし
こんなことができるかどうかわからないが、過去にあったいやなこと、未来に待っていると思う困難で頭がいっぱいになり、外界の風景がただ流れているだけになったときは、自分で
"右脳がんばれ"
というのも一つの方法かもしれない。いや、以前書いた文章 だが
私は明日の朝絞首刑になる
と自分に言い聞かせるのは効きます。本当に左脳が抑制され、右脳が活発化しているかどうかしらないが、あたかもそうなったかのような感覚が得られます。明日絞首刑になるなら、くだらないいさかいごとなどどうでもよくなる。それより、今自分が大切に思っているものについて考えたい。ふと外を見れば見慣れたはずの光景が輝くように見える。もうあそこに行くことはない、と思うとストリップ小屋の看板ですらいとおしく見える。
2009-06-25 07:16
ほえほえ、となっているときは本家 から転載
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人には天職というものがあるようだ。それをやっているとき、その人は最も輝き、そして力を発揮する。
しかしその"天職"が必ずしも物質的、精神的幸せをもたらしてくれるとは限らない。そんなことを考えた。
80年代に活躍したレスラー。その業績がアナウンスと雑誌の表紙で語られた後いきなり"20 years later"という字幕が出る。プロレスは条件さえ整えば還暦まで続けられるが、それは決して楽だというわけではない。
ト レーラーハウスに一人住むかつての有名レスラー。スーパーで働きなんとか生計をたて、週末はレスラーとして活躍する。彼と微妙な関係にあるのが、こちら も"85年卒業か?"と揶揄されるストリッパー。二人とも体をはって闘っている。闘いの相手は観客。如何に観客を喜ばせ金を払わせるか。
しかし心臓発作を起こしたことから、そうした生活にも見切りをつけなくてはならない、と悟る。客相手にサラダを出し、疎遠になっていた娘との仲を修復しレスラーは引退したと告げて回る。しかし彼の"天職"はあくまでもレスラーなのだった。
私は高校時代プロレスファンだったが、この映画で初めて"レスラーの闘い"が理解できたような気がした。体を鍛え、技を磨くがそれは相手を倒すためではない。いや、相手はともに観客を喜ばせ るパートナー。その関係はお笑い芸人の相方に近い。であるから対戦相手が決まれば入念に打ち合わせをし、試合の後にはお互いの健闘を称え合う。その信頼関 係あってこそ観客が歓声をあげるすごい技を繰り出すことが可能となるのだ。
その世界では主人公は偉大な存在として仲間から賞賛を浴びる。彼が"落ち着こう"と目指した世界では本名をさらし、ポテトサラダを"多い""少ない"と言われるたび何度も盛りつけする。
彼が最後の試合で"俺の家族は観客だ"と叫ぶ。観客はそれに歓呼で答えるが、もちろんそんなことはない。お互いそれがわかっていながらも会場は熱気に包まれる。そここそが彼の居場所なのだ。
そうした姿をこの映画は余分な虚飾なしに淡々と描き続ける。その姿を見ている間
"この男は何歳だ?俺と同じ歳か?"
と考え続ける。
あと、本職レスラー達の"名優ぶり"にも感嘆しました。彼の国ではあれくらいの演技力がないととても勤まらない職業なのだろう。
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この映画にでてくるレスラーは現職、あるいは元レスラーなのだそうな。その演技のナチュラルなこと。日本人レスラーにはとてもまねできまい。
この年になると思うのだ。プロレスという肉体芸は体を鍛えていないととてもできるものではない、と。高校生のころはブレンバスターとかあれこれやっていたけどね。今なら受け身をとっただけで寝込みそうだ。
誰にでも天職があるとすれば、私にもあることになる。それは何なのか。薄々気がついてはいるが、知らないふりをしている。私はトレーラーハウスに住むひとり者ではない。
2009-06-24 07:00
をを、なんだか"注目されるブログのタイトル"みたいになってきたぞ。
さて、世の中にはプレゼンのテクニックやらなにやらを説く文章があふれている。そりゃプレゼンテーションじゃなくて、資料の説明 だろう、と思うものからううむ、ここまでやれるものなのか 、と思うものまで様々だが。
そもそも論に戻る。なぜプレゼンを上手にしたいと思うのか。そこがなければテクニックを学ぼうとも思わないし、やったところで所詮形をなぞるだけになる。
いや、研究室で先生にプレゼンは大事だと言われたから、とかでは理由にならん。私が考える根源的な要素とはこれだ。
聞いている人の身になれるか否か
全てはここから始まる。なぜこんなことを言い出したかというとこれを読んだからだ。
第七条、
プレゼンの練習は聞き手への誠意!
発表に向けて努力・練習・準備した演者の誠意は必ず聞き手に伝わります。
たとえどんな流暢な演者でも準備してこなかったプレゼンは鼻につきます。
via: 微生物病研究所 感染病態分野
あれ、今あらためて引用してみると論点ずれてるな。まあいいか。
私が言いたいのはこう言うことである。くだらないプレゼン、退屈なプレゼン、制限時間を無視したプレゼン。こういうものを聞かされるほど苦痛なことはない。
そして自分がプレゼンをやる時に考えるのだ。これを自分が聞かされたらどう思うだろう。そう考えると深い自己嫌悪に陥り、そして内容を見直し始めるだろう。
そうなって初めて"プレゼンのテクニック"というものが意味を持ち始めるのだ。
"これを聞かされたらどう思うだろう"と自問自答できなければ、退屈なプレゼンの一丁あがりである。これも言いたい、これは苦労したから抜かせない。ここは細かく数字を並べたい。。語り手だけの都合で作り上げられたプレゼンほど退屈なものはない。
私にとって不愉快なプレゼンの最たるものは"時間を超過して延々と続くプレゼン"である。こういうことをやってなんら恥じるところがない人間というのは、基本的に相手のことを考えていなのだと思う。"ユニバーサルデザイン"を提唱する人たちのプレゼン が、どれもこれも時間を大幅に超過するものであったのは、実に象徴的だった。彼らは実に流暢にしゃべっていたから、テクニックは身につけていたのだろうな。聞き手のことを思いやる心はなかったけど。
とはいえ、過去に一度だけ"だらだらと続き時間を大幅に超過したが悪い印象を持たなかったプレゼン(というか演説)"がある。
その昔民社党という政党があった。その元党首、春日一幸 が労働組合の大会であいさつをした。
既にそうとうの高齢であったから、話はだらだらと続く。しかしところどころ面白い表現がはさまりくすっとさせられる。時間を大幅に超過してようやく締めくくりの言葉が続く。
"なんせ、この組合に来てお話させていただけるのは年に一回でございますから、ちょっと長くなってしまうのはご勘弁"
この一言でそれまでの"早く終われ、このじじい"という気持ちを吹き飛ばすのは、見事な芸としかいいようがない。
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[ちょっと追記)
そう考えると、私が知っているいくつかのプレゼン教室において、最初にやったことが
"自分がやったプレゼンのビデオを見せる"
だったのは実に理にかなったことだったのかもしれない。
プレゼンとは少しずれるが、コールセンターにおいて、一番教育の観点から効果があるのは
"自分がやった応答の録音を聞かせる"
ことだったと聞いた。いずれのケースも自分を聴衆の立場におかせ、その気持ちを実感させるという点で効果があるのだと考える。
2009-06-23 06:51
いや、明確に言ったことはないんだけどね。本日書く内容は以前書いたこと の焼き直し。
昨日こんな記事を見つけた。
あ:そうそうそ う。3人の声が混ざったらもうなんでもいいし、アルバム だから、シングル みたいに一人がここを歌ってサビでみんなみたいなのが考えられてないから、多分、中田 さんが一番いいって思うように振り分けられてるんだと思うんですよね。それに自分 達の声が乗っからせていただいてるんなら、って思いましたね 。ああ、今回こんないい曲くれた、嬉しいっていう
か:作品 としていい作品 になってれば、歌いわけがどうのこうのとかないです。聴く人にちゃんと伝わればいいし、曲のよさが伝わればそれでいい
あ:あの中田 様が私たちにまた曲を下さるのですね、見捨てないでいただいてどうもありがとう ございます 。またがんばりますって、普通 にそういう気持ちです。こんないい曲をPerfume に書いてくれた!っていう。Capsule ではなくPerfume に下さった !っていう
via: Perfume あ~ちゃんの壮絶な苦悩と絶望の吐露、そして彼女は壊れてゆく@Rockin'on JAPAN 09年7月号 - Aerodynamik - 航空力学
Perfumeというグループについては未だにこう思っている。初音ミクよりはるかに人間らしくなくなるまで加工された"歌声"。とってつけたような振り付け。彼女たちは古典的な"アイドル"-偶像である。
本人たちがそれで納得しているのであれば内需拡大に貢献ということでめでたいことだ。しかし彼女たちは、少なくともその一人はちょっととげのある言い方をしている。そしてそのトゲの根っこにあるものはなんなのか。
以下に示すブックマークコメントに私は同意する。
kadotanimitsuru 芸能 もうヤスタカは初音ミク使って、あ〜ちゃんはプロ歌手辞め趣味でニコ動で「歌ってみた」する、とすればいいと思うんだ。
いや、本当にあの"歌声"なら最初から初音ミクつかったほうがずっといいと思うのだよ。それじゃ金にならない、という人もいるだろうが、年端も行かぬ子供に、その重さも理解できない選択させるよりいいじゃないか。
まあないと思うが、あーちゃんという人が本当にニコ動デビューしないだろうか。名のない才能に簡単にけちらされ、芸能界という仕組みについてまた思いを馳せる、、なんて事がおこったりせんかな。
2009-06-22 07:10
というわけで今日はここ数日読んだブログの切り貼りをしてみる。
きっかけはこの記事である。
お前はオープンソース の何を知っているというのだ。
何を根拠に日本 にオープンソース を育む土壌がないというのだ。
どれだけの日本人 がオープンソース にかかわってきたのか本当に知らないなら、オープンソース については、語らないほうがいい。薄っぺらい言葉 は直ぐにぼろが出る。
via: ひがやすを blog
この言葉に対して、おそらくはとても頭のいい人がこのように"なだめる言葉"をかけた。
いや、「オープンソース当事者」の方々から見て、上記の話が全く的外れであって、仮想敵などいなくて、日本はハッピーな世界でオープンソースは花盛り、というなら私は全く間違っているので、話を引っ込める。えらそーなこと言ってゴメンと言って消える。(実際どうなのか、どなたか体系的にちゃんと説明していただけるとありがたい。)
via: かみつく相手が違うのでは - Tech Mom from Silicon Valley
一見するとこの"なだめ方"は見事と思える。対立を建設的な方向にもっていく、という姿勢はおそらく多くの場面で有効なことだろう。学ぶべき点だと思うが、末尾の"体系的にちゃんと説明していただけるとありがたい"のところに"私は頭がいいのよ。議論するなら体系的にね"という気位が見え隠れするような気がするのは私のひがみ根性というやつだな。
でもってそれに対する返答というのがちゃんとなされており、頭のいい人が手首だけで放ったショットが見事に打ち返されているのだが、それは読んでいただくとして、今日言いたいのはそこではない。
最初に謝っておきます。「オープンソース について知らないのなら軽々しく書くな」というのは言い過ぎですね。だれでも自由に物を書く権利がある。
via: ひがやすを blog
ここである。
ある集団が、自分たちの行動に誇りをもつあまり排他的な要素を帯び出すのは古今東西普遍的に見られる現象である。
ひがやすを氏も自分で認識されているとおり、明らかに知識を持たない人の言葉にいちいち腹を立てる、というのは後で冷静になって考えてみればあまり得策ではない。なぜそういえるかといえば、私がよくそうやって腹をたて後で後悔するからだ。
有能な人間を取り込み、より活動を活発化していこうと思えば、そうした"素人のたわごと"をうまく取り込むのも一つの方法ではないかと思うのだ。
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話は突然かわる。先日有名なレスラーが試合中に死去した。それに対してこのような記事を書いた人がいた。
極端に言えばこういうことなんだ。人の道には反するが、プロレス 的にはこれが正しいんだ。彰俊は三沢 を冒涜すればいい。悪しざまに罵り、嘲り、笑い捨てればいい。心の中で「ごめん」と拝み、その反対の行動を徹底すればいい。それが自分 が生きる道だし、三沢 を生かす道。三沢 を生かすには、自分 が生きるしかない。人間 的に最も間違った行為が、プロレス 的に正しいことがあるんだ。そして故人を敬う行為になることがあるんだ。
世間の憎しみを集めればいい。社会 を敵にまわすといい。日本 中に非難されればいい。その過程で「悪役斎藤彰俊 」は認知 されるだろうし、斎藤彰俊 が認知 されればされるほど、三沢光晴 も認知 されていく。
via: プロレスラーの生きる道 - タケルンバ卿日記
正直言って感服した。なるほど。プロレスという芸を究めるためにはこれくらい人の道を踏み外した発想というのもあるのではないか。しかしこの記事についているコメントには否定的なものが多い。
鶴田VS三沢戦を100回見よ。若林が何を語っているかを100回聴け。 2009/06/18
tororo-imo プロレス, これはひどい, バカ? こいつ、今のプロレス見てねぇだろ。そんな古くさいアングルで喜ぶのはてめえくらいだ。/ 斎藤彰俊のキャラ、立ち位置も知らねえんじゃねぇの。プロレスの知識も古すぎ。バカか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20090615/p1
それらを読むにつけ、このようなコメントは"今のプロレスにとても詳しい人たち"からの言葉なのだろうな、と思える。確かにそのような人たちは引用した意見を読めば怒りを覚えるだろう。
しかし
今やプロレスはパイを減らし、絶滅の危機にひんしている、という事実は動かしようがない。三沢氏は社長業-つまりは金の確保だ-で疲れ果てていたとも聞く。自分たちの知識と愛を誇りにし、"素人"に罵詈雑言をなげつける。それは個人の判断だが、その結果としてパイはどんんどん縮んでいるのだ。
私が若いころ、プロレスはゴールデンタイムに放映されていた。大きな会場を満員にすることができた。当時のプロレスより、今のプロレスのほうが優れている部分もあるだろう。しかし少なくともメジャーと呼ばれる団体の社長が金策に疲れ果てることはなかったのではなかろうか。
などと考えているとこの記事が思い出される
コミュニティ は愛があっても崩壊することがあるのだから愛のないコミュニティ は当然崩壊する
だからウエブに参加する人は自分 が示すことのできる最大限の愛を示すべきだ
日本人 は大きいおっぱい には執着するが、パイを大きくすることにはなぜか無頓着 だ
おっぱい が小さくてもそれなりに生きていけるが、パイが小さくなるとそれなりに生きていくのも大変になる
via: おっぱいが小さいと問題にするくせにパイが小さくなることは問題にしないのは問題ではないか - 服従するが果たさない
おっぱいを、いやパイを大きくするためにはやはり"素人のたわごと"にどうこたえるかもう少し考えるべきなのではなかろうか。ある本で読んだ言葉だが
"富士さんと巨乳は遠くから見ている方がいい"
というものがあり、パイが大きくなればそれはそれで問題もでてくるのだろうが、パイが小さいと生きていくこと自体大変だよ。
そう思えば、いつかの冬季オリンピックで"韓国選手の妨害をした"と韓国だけから非難されたスケート選手のコメントをお手本にしたいな、と思うのである。サッカーワールドカップで、韓国がそれを揶揄した(と自分たちだけは思った)パフォーマンスをした。それに対する反応はこうである。
安貞桓選手のアクションを、ほかの韓国選手も後ろに列を作って真似たが、11日付の米紙シアトル・タイムズによると、当のオーノ選手はこれを見て「フォームがなっていない」と一言。
オーノ選手は「自分の決定ではないのにいつまでも恨み続けられているとは嘆かわしい」と語りながらも、「(スケートは)もっと腰を落として、肩を水平に保つようにしないと」などと話して、フォームの悪さを指摘。さらに今回の韓国選手の「表現」で、スケート競技に興味を持つ人が増えてくれればと"大人"の対応を見せている。
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さて、とこれくらい書いておけばこれから私が書くことに対して、プロレスファンからの怒りも少しはかわせるのではなかろうか。
週末"レスラー"という映画を見た。感動した。ちゃんとした映画評は後日アップロードするが、今はこう考えている
"プロレスとは肉体を駆使した技を使った漫才である"
敵は観客。そしてリング上にいる相手はともに敵と戦う大事な仲間なのだ、と。
2009-06-19 07:12
というわけでいきなり引用
「エンジェルはダイアモンドと同じ。作ることは出来ないから 見つけ出すしかないの」
via: m @ s t e r v i s i o n | archives 2003b
なぜこんなことを言い出すかといえば、昨日こういう発言を見つけたからだ。
参考文献が足りないなら足せばいいし、評価が不充分に見えるなら適当に評価結果を並べときゃいいでしょう。こういった理由の減点法で何でも不採録にしてしまうと、面白い論文が全部不採録になってしまいます。
via: Twitter / Toshiyuki Masui: 参考文献が足りないなら足せばいいし、評価が不充分に見 ...
1)参考文献を誰にも文句が言えないほどそろえる。
2)評価を、誰もまともに読みたくなくなるまで行う(意味はないけど)。
3)"これは面白い"と思えるテーマ、手法、提案を作り出す。
論文というものは1)と2)がそろっていれば通るものらしい。逆にそれがないと問答無用でRejctされる。
それでは1)~3)の中で
"作り上げることはできない。見つけるしかない"
ダイアモンドは何だろう?
採用面接するときに私がよくする質問は
"日常使っているインタフェースで、あれは許せん、というものを挙げてください"
というものだ。そうした問題意識なしに3)は生まれないと思うのだが、いまだかつて私が期待する答えが返ってきたことがない。
だから私は3)がダイアモンドだと思っている。土がついているから、磨かれていないからとゴミ箱に入れるのではなく、それを見つけ出し磨くことができる場が必要だと思っているのだ。
などと考えてくると、IPAがやっている未踏ソフトというのはそうしたものを指向したものだったのかもしれんなあ、、と思う。未踏採択されたプロジェクトの中であっても、光をはなつ石は数少ない。それほど3)は貴重だと思うのだ。
そこで見つけてもらってもゴミ箱にとどまっている石は。。
2009-06-18 08:25
TVの上であれこれやらせるインタフェースが多数発表されている。
興味があるのは、それぞれがどの程度使われているかだ。数年前のことだが、録画機器か何かを作っている家電メーカーの人が、文字入力インタフェースを紹介した後こう言った
"ユーザからのフィードバックが全然ないのです。何かご意見をいただけると幸いです"
そこに出席している人達はみんなこう思ったと思う。誰も使っていないんだよ、と。
話を元に戻す。TVの上でたとえばピザが注文できるシステム、あるいはビデオがレンタルできるシステムがある。しかしそれらの画面を見るたび考えるのは
"TVはそもそもそうしたちまちました操作をするのに向いていない"
ということだ。そして手元のiPhoneをみる。ディスプレイがあり、操作したいものに直接触れるインタフェースがあるのに、なぜ遠くにある画面にたいして、キーを連打しカーソルを動かさなくてはならないのか。TVが最もとくといするのは大画面の映像を表示すること。それだけに徹するべきではないだろうか。
この"手元操作と遠くにあるディスプレイによる確認"をどう組み合わせるかについては、問題意識だけ共有されてはいるが、誰も解は見つけていないと思う。いくつかヒントになる要素は存在しているが、まだ形にはなっていないのだ。
一歩進んで
そもそもリモコンというのが私は好きではない。Apple TVのリモコンのようにシンプルでそれ自体は美しいものを作ったとしよう。しかし使っている人間の姿が美しくないのだ。画面に怪しげな箱を向け、手を伸ばし指をかちかちする。ハタからみて格好のいいものではない。
ではどんな操作デバイスがあり得るのか。といったところで以下次号(実はまだ考え付いていません)
2009-06-16 07:04
前にも同じことを書いた気がするのだが、とにかく書いてしまう。
デッサンという行為がある。たくさん薄い線を書きながら、その中で自分が欲しい線を探していく。絵画にはこのような試行錯誤が必要なのだ。最初からずばっと線をかける人はいない。レオナルドダビンチの作品ですら、そうした試行錯誤の跡が残っている。
さて、話はかわって文章である。良い文章を書くにはどうすればよいか。そもそも内容が重要という意見やら構成がどうの、という意見やらあるが、ここはミクロな視点に限って考えたい。文一つ作り上げるにも試行錯誤が必要なのだ。
同じ意味を持つ別の言い回し、類似する言葉との入れ替え、順番の入れ替え、助詞の変更などなど。
そうした試行錯誤をサポートし、最後に一本自分が求める"線"をさぐりあてられるようなインタフェースができないだろうか。Initial のImageとしては、音声訂正 にちかい。しかしおそらくもっとダイナミックなインタフェースが必要とされるだろう。次々と助詞が入れ替わり、語順が変わり、、
などというだけならタダだな。。さて見積もりでも作るか。。
2009-06-15 07:19
基本的に"使えないもの"と考えるようになった。音声認識、画像認識、ジェスチャ認識。。
いや、これは明らかに間違ったものの考え方だ。しかしそこからスタートするくらいでちょうど良い、というのがここ数年で得た結論である。
それらはいずれも"未来の技術"とか"マイノリティレポート"とかいう言葉と一緒に紹介される。そしていつまでも未来にとどまっている。いや、もちろん一定のアプリケーションにおいてはそれらはちゃんと使われている。しかし広く生活を変えるまでには至っていない。その数少ない例がWiiではなかろうか。
Wiiが発表された時、いろいろな反応があったやに記憶している。そして今年のE3でMicrosoftとSonyがモーションセンサーを発表したことで、それが与えた衝撃が明白となった。
使われている技術も興味深い。Sonyについてはよくわからないが、Micorsoftは2台のカメラを使っているようだ。そしておそらくは素人を喜ばせ、玄人に苦笑される宣伝文句をぶち上げた。
2D カメラやコントローラーとは異なり、「Project Natal」センサーは全身の動きを 3D で追跡し、命令、指示、あるいは音声に現れる気分の変化にまで対応します。
また他の機器とは異なり、「Project Natal」センサーは使用する場所の明るさに依存しません。顔を見るだけでユーザーを認識し、またキーワードに反応するだけでなく、ユーザーが発した言葉の意味を理解します。
via: Xbox.com | COMPANY - プレスリリース
いや素晴らしい。"ユーザが発した言葉の意味を理解"とは。とはいえ、膨大な数の研究者を抱えるMicorsoftが本当にそうした技術を開発した可能性も捨てきれない。今言えることは
このゲームにはかなり大きな可能性があることがわかる。マイロというキャラクターががどれほどチャーミングで真に迫っているかを考えればなおさらだ。
ただし、『Project Natal』の他のすべてのものについて言えることだが、『Milo and Kate』の力量が真に試されるのは、E3での管理されたデモから遠く離れた、われわれのリビングルームにやって来たときだろう。
via: MSの画期的な『Project Natal』と、「バーチャル少年マイロ」 | WIRED VISION
○○認識に共通する特徴は"管理された環境下にあるデモでは見事に動作するが、決して実験室をでることがない"点にある。はたしてNatalは外にでてくるだろうか?
こうした両者に対し、任天堂のアプローチは際立って異なっている。
・カメラを用いたモーションセンサー技術のコントローラーは過去に社内で実験をした。しかし現在Wiiが採用している加速度センサーの方が優れているという結果が出たので、Wiiには加速度センサーを採用した。
・「実際にコントローラーが発売されて対応ソフトが出るまでは、どうこう言うことは出来ない。でも、ひょっとすると今発表されているものを、そのまま製品化することは難しいんじゃないかな」
・岩田社長自身はWiiの加速度センサー採用のコントローラーによって、このジャンルでスタンダードの立ち位置を勝ち得たことを大変嬉しく思っている。「『加速度センサーのコントローラーなど上手くいくはずがない』と言っていた方々は、今やモーションセンサー技術を提唱しているよね」
via: ソニー・MSが導入したモーションセンサー技術、任天堂は「過去に検討したけど不採用」:Garbagenews.com
彼らにとって重要なのはコンテンツ、ユーザ体験であり、どのような技術を用いるかはそれが新しいユーザ体験をもたらすことができるか否かだけに依存している。
Wiiを注意深く操作してみれば、それが"ゲーム"のために実に慎重に作られていることがわかる。ぼんやりしたコントローラーの出力をいかに楽しいゲームの操作機器として仕上げるか。そこに実に興味深い工夫があるように思うのだ。
でも"論文"としてみたときには、
RGB カメラ、深度センサー、マルチアレイ マイクロフォン、および専用ソフトウェアを走らせるカスタム プロセッサを内蔵した、世界初の機器
via: Xbox.com | COMPANY - プレスリリース
のほうが"新規性有り"ということになるのだよね。。
2009-06-13 04:32
昨日書いた事に少し補足。
学会というところは学会のルールで動いている。
そしてそこに少し触れた身として思うのだ。仮にどの学会でもいいからiPhoneやWiiの開発について論文を書いたとしよう。
すると間違いなく
"新規性なし"
としてRejectされる。(実際それらの発表直後にそういう反応をした"学会屋"を何人か知っている)
学会は学会のルールで動いている。
それは理解できる。
しかし何かがおかしくないか?
"こんなもの誰が使うんだ"と思う物でも、先行事例との差異が示してあれば良い論文で、"これは誰もが欲しがるだろう"と思う物でも、"技術的新規性"がなければ悪い論文なのか?
論文とはそうしたものだ、という開き直りが聞こえてきそうだ。
しかし
WiiやiPhoneのようなものを作り発表できる。そして議論、評価される場所があるべきではないのか?
そうした場所があることには意味があるのではないか、まじめにそう考えている。
2009-06-12 06:55
というわけで某所で見つけた"スイスの独立時計師"たちのお話なのだが。
世界最大の時計の見本市、バーゼルフェアに小さなブースが設置され、そこでは18人の独立時計師が自分の作品を展示している。
一人の時計師がこういう
"ここには創造性があふれている。とても刺激を受ける。いますぐ工房に戻って作り始めたいくらいだ"
思うにこういう場所が他にあってもいいと思うのだ。
創造はひとりで行わなければならない。しかし外部からの刺激は重要だ。
どんな時代にも、少数のホットなトピックがあり、それに向けて多くの仕事をなす少数の集団がいる。
それらの中心から遠く離れてしまっていては、良い仕事をするのはほとんど不可能だ。
このような流れを押しよせたり引き寄せたりすることはある程度できるが、
完全に逃れることは出来ない。
via: Taste for Makers
というわけで、CHIに関してホットなトピックを"競い合う"場が必要だという気がするのだ。
現実にはWISSとかインタラクションとかがそうした場になっているのかもしれないが、私がより理想的と思うのは今は開催されなくなってしまった"キーボード研究会"である。
「高齢者はキーボードの装置が苦手」――キーボード操作を覚えられない母親を助けようと、本田展士さん(個人参加)が開発した入力装置「ジャイロスティック」。乗り物の操縦かんのような形で、一見してキー入力に使えるとは思えない。
via: ITmedia PCUPdate:お年寄りと戦車の文字入力──インタフェースはまだまだ進化する
この会合の参加者名簿には一見の価値があった。"一介のキーボードマニア"とか"生協"とか研究業界とは無縁の所属名が並んでいた。しかし発表されるもののインパクトと参加者の熱意は大規模な学会に勝りこそすれ劣るものではなかったのである。
なんとか改善しなければ、というのは学会の人たちも考えているところだと思う。しかし様々な試みも結局元に-つまり現在の形態-に戻ってしまうというのが実情のようだ。
私の考えでは、真に変わったもの、新しいものを生み出せる人というのは一握りしか存在しない。つまりそれは属人的な才能なのだ。
そうした"事実"を認めた上で、徹底的にそれに立脚した発表の場をつくることができないか。地下鉄の駅から家につくまでの間そのことを考えていた。
論文を出すと必ず言われる"新規性"とか"有効性の評価"については批判が多い。しかし誰も確たる対立軸を提案することができないでいる。私も
"これのどこが類似先行研究なんだー!"
と何度も叫んだクチであるからして批判だけはできる。しかし提案は。。しかし思うんだよ。新規性、有効性の評価なんてのは、結局
"俺はあんたのやっていることが気に入った/気に入らない"
の"学術的"な言い回しにすぎない、と。
ちなみに並行して
"使っている人を美しく見せるTV操作用インタフェース"
についても考えていた。あおり文句だけは思いついたのだが、実態はいまだ考察中。表にでることがあるかどうかはわからない。
2009-06-11 06:53
ネタのない日は、本家 から改変しつつ転載。
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ある映画評のパクリだが、
"オープニングを見ている間に既に退屈していた"
何がと言われると困るが、どことなく緊張感がないのだ。これはどうしたことか。米国での評価が散々だったようだし、やはり、、いや、まだ始まったばかり。変な予感にとらわれてどうする、と自分に言い聞かせる。
そのうちこんなシーンがでてくる。映画では何かの理由により"登場人物が、時間を飛び越し登場する"ことがある。(タイムリープとか、何年も昏睡状態にあったとか)そうした時に
"今日は何月何日、いや何年だ?"
と聞くのはお約束である。普通そんな聞き方をする人はいないから
"何を言っているんだ。お前頭おかしいんじゃないか?"
と突っ込みをいれるのもお約束。ところがこの映画ではそのまま何事もなかったかのように会話が進むのだ。ちょっと待て。
と いったところから始まり、ジョン・コナーがハンサムではあるが一種類の表情しかしないのに飽き飽きし、機械が強いんだか弱いんだかさっぱりわからず、人間 の司令部にいる人達が絵に描いたような"荒くれ者"で笑いさえこみ上げ、これはどうやっても950円以上はつかないなと思っているうち映画は終盤にはい る。いや、別に有名シリーズにふさわしいできを見せろとか、そういう面倒なことは言わない。言わないからとりあえず場面の続きがわかるようにしてもらえな いだろうか。単純な筋なのに場面がふっとぶのでどこにいったかわからなくなる。
CG で復元された若き日のシュワちゃんがでてくるころには、もうどうでもよくなっているので腹もたたない。I'll be back,だのCome with me if you want to live,だの有名な台詞とかどうでもいい。まともな映画みせろよ。最も近い印象を持った映画はハリウッド版ゴジラ。となりの人が何度も時計を見る。気持ちはとってもわかります。(後で調べて驚いた。これって2時間切る短い映画だったんだ)
見ているうちに考える。過去の3作は何がおもしろかったのかな。するとターミネターの恐ろしさは触媒であり、私にとっては、それらはいずれも人間の物語であったことに気がつく。この映画の登場人物はいずれも美形だが、カケラも記憶に残らない。
思うに
"ターミネーターなら僕に作らせてください。1−3までどれも五百回以上はみてます"
というターミネーターオタクに作らせたのはないかなあ。出来を問いつめると
"だって、あの台詞もあの場面もはいってるでしょ。いやあ苦労しましたよ。CGはしっかり最先端技術を取り入れてるし。何が問題なんです?"
とか真顔で答えるような。
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いや、ひどい2時間であった。2chを読むと、主役の男優が"おれにジョンをやらせろ。もっとジョンをかっこよくしろ"と脚本の改変を迫ったとか。確かにそう言われれば、というようなどうしようもない脚本であった。
世の中には"失敗学"というものがあるらしい。こういう映画や、ドラゴンボール、それにシャマランの映画がなぜ公開され続けるかについても調査、考察すると面白いのではなかろうか。
2009-06-10 07:50
"静的不安定なマウス"
どうです?これ。
またもや前職の親会社のデザイナーさんたちの言葉の受け売りなのだが
Segwayは所詮デジタル式の操作方法にすぎない。一輪車に乗れた時の喜び、細かい制御などには及ぶべくもない。
そう考えるとだよ
静的不安定なマウス、というかポインティングデバイスって面白いと思いません?ほおっておくと必ずどっかに行ってしまう。しかし"乗り方"をマスターすればほんの少しの動きで驚異的な速度と精度でポインティングができる。
これうまく開発して"評価"をしっかりやれば論文にならないでしょうかね。テーマに困ってる学生さん、どうっすか。いやね、私ユーザビリティとかそんな言葉には飽き飽きしてるんですよ。"初見る"の人には全く使えないが、熟達者は驚くような効率をたたき出すデバイスっていいと思いません?
2009-06-10 07:17
というわけで、恒例の"人の注目を集めたくて過激な言葉を使ってみたけど、すぐ怖くなって反省する"コーナーです。
とはいえ、タイトルの書いたことは常日頃考えることであるのは事実。
別にノーマンの本に掲載されていた"異常に複雑な操作の音楽プレーヤー(だったかな)"の擁護をしようというわけじゃない。
しかしだ
日常をぐるっと見回してみただけでもこれくらい"見ただけでは絶対に使えない"機器というのはあふれており、しかもそれにはそれなりの理由があるように思うのだ。
自動車を初めて見ただけで運転できる人いますか?上手に運転とかそういうのはどうでもいい。どうやったら動くか。どうやったら止まるかわかりますか?
自転車を初めて見ただけで運転できる人いますか?
ピアノを始めてみただけで弾き方がわかる人いますか?(私が知る限りこれができたのは"奇跡のシンフォニー" にでていたハイモア君だけだが)押せば音がでる。それは子供でもわかる。ペダルってなんですか?
特に某自動車会社のデザイナーがタイトルの言葉を言い放った、と聞いた時私の血液は沸騰しそうになった。そもそも自動車は、、いや、相当長期にわたって燃料タンクの表示がFとEだった、などというのは別次元の問題でだな。
こう考えると
"使いやすさ"という言葉はいろいろな文脈で取らえるべき言葉であるように思う。きっと世の中にはそこらへんについてちゃんと考察した文章やらなにやらあると思うのだが、私知りません。誰か教えてください。
これは以前働いていた会社の親会社のデザイナーさんたちが言っていたことの受け売りなのだが、世の中には、ちょっとみただけでは使い方がわからず、少し習っただけではなんともならないが長期にわたる練習と、才能が組み合わさったときとんでもない力を見せる機器というのが存在しているように思うのだ。
先ほどあげた自動車やら自転車やら楽器というのはその類。自分で何を言っているかわからないまま書くのだが、あるいはプログラミング言語なんてのもその類かもしれない。"見ただけで使える"幻想を与える自然言語に近い言語はいくら作られても普及せず、達人のプログラムというのは私なんぞが書くものとは隔絶した世界に存在する。
そう考えると(さらに意味のわからない妄想は加速するが)
ちょっと見ただけではわからないレバーやらボタンやらついている座席+PCで使い方をマスターすれば驚異的な効率でWeb情報をかき集められるブラウザー
つまらないですね。はいすいません。いや、CUIを極めたブラウザーってどこかにないのかな。コマンド体系はviなみに非人間的だが、修得すれば狂ったような速度で情報をブラウズできるとか。
なんでこんなことを言い出したかというと、昨日この動画をみたからなんだけどね。
いや、こんな非人間的な曲を作る方も演奏する方もどうかしている、としかいいようがないのだが、その結果は見事で美しい音楽。
2009-06-09 07:31
とりあえず気にしないことにしている。昨日こんな記事を見つけた。
もし本当に画期的なアイデアだったら、背景となる知識・経験が他人とちがったものになっているはずなので、しゃべっても絶対に理解してもらえないから大丈夫。おれの過去の経験でも大成功するプロジェクトは、だいたいキックオフ 会議の雰囲気が最悪になる。「あー失敗プロジェクトに関わってしまった」というものいわぬ顔で満ちあふれる。そういう企画が成功する。そういうアイデアに価値がある。
via: 自分の考えたアイデアを内緒にしたがるひと - はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記
もちろん圧倒的に可能性が高いのは
"お前のアイディアがどうしようもなくくだらない"
ことなのだが、それには目をつぶりかすかな可能性に目を向けるわけだ。
しかし"背景となる知識・経験が他人とちがったものになっている"にはうなずけることがある。知識は別として、経験、気づきは人によって全く異なるので短時間で説明することは難しいし同意を得ることは不可能に近い。
かくして大勢で同意をとって進めようとすると誰もが気が付いている問題を誰もが気が付く方法で解決しようとするものになり、凡庸になる。そりゃ最大公約数をとっているんだからあたりまえだよね。
とはいえ、今まで自分が知っている範囲でいえば
"理解されない孤高のアイディア"
は
"本人が理解しているかどうかもあやしい、閉じこもった妄想"
である可能性が99%である。だから私のアイディアがウケないのも(以下ループ)
2009-06-08 06:52
いや、題名だけで釣ろうと思えば
"ネット家電が普及しないたった一つの理由"
とすべきなのだろうけど、嘘はつけない。
一つには"そもそも何がうれしいのかわからん"というもっともな理由。たとえば冷蔵庫をネットにつなぐと、最寄りのスーパーでの買い物が一律2%割引、といえばたちまち普及することであろう。
こちらの問題点はあまりにも多く議論されているので今日とりあげることはしない。
もうひとつは
"どうやってつないだらいいかわからない"
ところにあると思う。
いや、これは"取扱い説明書を読まないと使えない"とかそういう高尚なレベルの話ではない。たとえば、最近のマンションであれば、どの部屋にも電話、TV,そしてEthernetの口がでていたりする。
問題は
その口に線をつなぐのであれば、多くの人ができると思う(なんだかんだいっても電源コンセントには誰もが接続できているのだ)
本当の問題は
2台目をつなぐときどうしたらいいのか、多くの人にはわからない点だ。一つある口はもうPCにつなぎました。もう一個ネット接続したい箱があるんだけど、どうすればいいのか?
ここでルーターとかハブとか聞いたこともない言葉がでてきた時点で接続可能な人の数は一気に1/100くらいになるのではなかろうか。技術者の多い会社でこんな話をしようもんなら
"いや、そこで固まる人は所詮ネット家電を使えないんだよ"
とか誇らしげにいう人間がでてくるし、もうその時点でアウトである。
ちょっというと、延長コード+マルチタップのように使える、"マルチEthernetコード"が発売されるだけでそこらへんの状況は大幅に改善されたりする、とも思うのだが、そういう製品はない、、のかな?
いや、冗談じゃなくこの要素って大きいんですよ。
2009-06-05 09:51
おそらく世の中には同じことでハマる人もいると思うのでここに書いておく。
願わくばGoogle先生のお力添えによって、その人のところにこの情報が届きますように。。
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Google App Engine for Javaを使ってあれこれ作ろうとしている。
JDOを使って、データを保存しようとしたところで
"you have either specified for this PMF to use a "persistence-unit" of "transactional" (yet this doesnt exist!)"
とかなんとか言って怒られる。おかしい、何もかもTutorialのステップ通り行ったはずなのに。
といったところで2時間ばかり無駄にする。結局
jdoconfig.xml がアプリケーションのwar/WEB-INF/classes/META-INF/にコピーされていなかったことが原因だった。Eclipseを使えば自動的に、、と思いこんでいたのだが、なぜかそうなっていなかった。
DataNucleus Forum(http://www.jpox.org/servlet/forum/viewthread_thread,5519)には違う環境で同じようなエラーがでる症状が報告されていた。振り返ってみれば同じような原因だった気がする
2009-06-05 07:29
某所で見つけた"スイスの独立時計師"たちに関するドキュメンタリーを見ている。
かつて隆盛を極めたスイスの時計産業は、クオーツ時計の普及にともない壊滅的な打撃を受ける。しかし機械式時計へのこだわりを追求した高付加価値の時計を作ることにより再び産業として発展しだす。
また企業に属さず個人で高価な時計を作る独立時計師なる人たちもいる。
流れては消えるビットに触れることが多い今日この頃だが、番組中の一つの言葉が記憶に残る。
祖父からうけついた時計を修理にきた男性の言葉だ。
"祖父はいつも起きるとリュウズを巻いていた。その姿を覚えている。私も同じようにこの時計を大事につかっていきたい"
ふとiPhoneをみる。シンプルであきが来ない。しかしその寿命はどれほどだろうか?中の機構は5年ももたないだろうし、製品としての寿命は3年ほどだろう。それが終われば、価値がなくなる。自分から子へ、そして孫へ受け継がれることなど考えられない。
そしておそらくは車もそうではないかと思うのだ。単純な機構の車は部品を取り換えたり、必要であれば自作して長い間乗り続けることができる。しかしおそらく昨今の電子制御などを取り入れた車でそうしたことは不可能なのではないか。自動車部品がなくなればそれまで。
そこで考えるのだ。今、親から子へ、そして孫へ受け付いていける"物"はなんだろう、と。ふと"サイトはどうだ"と考える。もちろん、サイトだのプロバイダーだのの仕組みが変わればそれでおしまいだが、現に本家は2代にわたって書き散らした文章を納める場所になっている。そろそろ3代目の作品もアップロードしようかと考え始めている。
なるほど、それは一つの結論だ。しかし形あるものではどうだろう?電子部品が入り込むと寿命が短くなるのではなかろうか。スイスで機械式時計を使う人は、"機能""性能"とは違うところに価値を見出し、多額の金を払うように見える。こうした商売のやり方は確かに存在するのだが、それがITと結びつくことはあるのだろうか。あるいは所詮相容れないものなのだろうか。
2009-06-04 06:58
この両者の優劣についてはいろいろ議論が絶えない。たとえばこんな記事がある。
IDEO のビデオ。数人が1週間で生み出すデザインより、一人が数年かけて生み出すデザインの方がいいと考えている
私(棚橋)はIDEO の手法を支持している。(ここで会場、凍り付くw)
via: 第3回情報デザインフォーラムを振り返って - 謀
どこかで聞いた話だが、委員会がどんな豪華なメンバーを揃え、何年間の月日を費やしたとしても、見事な美術作品を作り上げることはできない。芸術家というのは基本的に個人、または少人数が主導して作品を作り上げる。
ジブリにしても結局いつまでも宮崎駿の名前がでてくる。才能あるクリエイターを採用しないのか、あるいはその芽がでない仕組みになっているのか、はてまたそもそも宮崎駿の作品は、彼でなければできないのか。
私がCognition & Creativityというカンファレンスでデモをしたときある人がこう言ってくれた。
"このConferenceではみんながCollaborationということを言っている。でも本当にすぐれたアイディアというのは個人からでてくることもあるのよ"
この個人という言葉を誤解してはいけない。完全に隔絶された環境にいればいい作品が生まれるわけではないのだ。ある人が言った。問題は現場で起こっているが、回答は現場以外のところにある、と。その人は確かに現場以外にもどんどんでかけていき、そこから問題の解答を探し出す人だった。
私は増井氏の意見に賛成である。もちろんそれを他人に納得してもらえるだけのデータがそろっているわけではないが、個人の創作というものを信じている。ではなぜそうでなければならないか。
一つには個人が自分の意欲だけにかられて創作するとき、そこにはいいわけが入る余地がない、ということがあげられる。自分に言い訳してどうする。しかしグループワークであれば
"これだけやればいいだろう"
と本質を全く外したところで説明が成り立ってしまう。そし成果物はわけのわからないものになる。
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なぜこんなことを書きだしたかといえば、先日の音楽会議4でそのことを何度か考えたからだ。
まず最初に個人のアイディアを書く。次にそれをもちよりグループのアイディアを出す。最終的に誰かが賞品に該当するアイディアを選び出す。
私は自分が出したアイディアに愛着を持っているから、それを足したり割ったりすることに興味はない。だからグループのアイディアは、自分のアイディアとは全く別個に考える。
さらに自分の知らない誰かがそれをどう評価するか、ということにもあまり重きを置いていない。
などと考えていくと、やはり増井氏のように
"とっとと作ってさっさと公開する"
ということになるのだろうな。昨今はそれができる時代だし。
2009-06-03 06:54
General Motorsといえば、私が1997年の2月から12月まで放り込まれた会社でもある。あれがなければ今でも名古屋でエアコンか何か作っていたのだろうか。
Tech Centerというところで作業をしていた。最初はあまりに巨大なビル(縦ではなく平面方向に巨大)で目的とする場所にたどり着くことが困難だった。ビルの中にエスカレータも動いていたな。
CADが並んでいる部屋はとても暗かった。なぜか向こうのCAD使いたちは日の光を極端に嫌うらしい。
4人のチームに一つの机が割り当てられた。われわれはそう問題もなくそこを使っていた。そこは本来二人で使う部屋でわれわれが使っていたのはその半分の領域、ということを知ったのはそこを追い出される直前だった。
首尾よくというか不幸にして仕事を受注してからは、連日会議ばかりしていた。GMのエンジニアという人たちがいるのだが、彼らは結局何をしていたのだろう。ずっと会議をしていたのかな。図面を引くのはDesignerの仕事だし。
西海岸では当時日本車ばかりが走っていたが、さすがにDetroitでは米国製の車が多い。レンタカーも黙っていると米国車に乗せられる。コルシカという車に乗せれらた時は、なさかなかった。何から何まで使いずらいのだ。ダッシュボードは切り立った崖のようだし、スイッチは変な位置についているし、内装は趣味の悪い赤紫だ。
こりて次からは、Hyundai Sonataをリクエストするようにした。こちらは何もかもが日本車のようなテイストで親しみがある。
GMは値段交渉の上ではむちゃばかり言われたが、エンジニアたちはいい人が多かった。彼らも英語もろくに話せない日本人のチームを割り当てられ苦労したと思うし、時々文句らしきものを言われたが、とても丁寧な言い方だった。きゃんきゃん怒るお姉ちゃんが一人いたが、丁寧に話せばわかってもらえた。
Chapter11にはいって彼らはどうなるのだろう。ふと思い出すこともあるが、あの場所にまた戻りたいなどとは夢にも思わない。
2009-06-02 07:13
「これはWolfram|Alphaが目指していることではないかもしれないが、GoogleとWikipediaに慣れた人々は、何らかの答えを得ることを期待していると思う。そうした人々には、たとえ質問が対象範囲から外れていても、必ず何らかの答えを与えるべきだと思う
via: 新検索エンジン「Wolfram|Alpha」--ユーザーの声から明らかになった課題:スペシャルレポート - CNET Japan
間違っていても何か返す。これはインタラクションシステムにおいてとても重要なことだ。
コンピュータに初めて触った人、あるいはプログラミングをした人はその
"融通のきかさな"
に驚く。一文字くらいなんだというんだ。全角半角がどうしたというんだ。それくらい適当に解釈してくれよ、と。
しかしコンピュータの上で人に使ってもらうものを作る側からすれば、そんなことはとてもできない。かくして
syntax error
というメッセージをたくさんみることになるわけだ(年がばれるな)
しかしここ20年で急速にメジャーになった"検索"という行為はこうした"入力が正確じゃないと答えを返さないよ"という枠組みから大きく外れている。とにかく何か返す。それをみて使い手がまた考える。
こうした極めてインタラクティブな"過程"であるように思うのだ。
これは結構大きなパラダイムシフトであったように思うのだが、あまりそういう観点から書かれた文章を読んだことがないな、、、って私が知らないだけですか。そうですか。
2009-06-01 07:20
というわけで本日は音楽会議4に参加している間、何を考えたかについて書く。前回 を読んでいない人はそちらから読んでね。
携帯電話に搭載されたシンセサイザーを活用するために、楽器にする、というアイディアは理解できる。問題はそれが"使ってみたい"と思わせるものか、という点だ。
目を閉じて彼らの演奏を聴いてた。おそらくはとても演奏上手な人たちなのだと思う。しかしそれであってさえ、彼らの演奏は"携帯で演奏できるんだ。すごいね"というものを超えることはなかった。
つまり"踊るクマ"の範疇をでることはない。
目を開けるとどうか。
これはYAMAHAの方も認識しているようだが、そもそも携帯電話のボタンを押しまくる姿というのははたからみていて美しいものではない。そうした姿の人間がちまたにあふれている今日この頃というのは私にとって快適なものではないのだが、彼らの"演奏姿"をみているとその感をますます強くする。
このように考えてくると、携帯電話を楽器にした彼らのデモに"驚き"を感じはするが、"ぜひほしい"とはどうしても思えないのだ。
またこうした"素人向けの楽器演奏"というものについてはおそらくYAMAHAも経験したであろう以下の要素を考慮に入れる必要がある。
そもそも素人は"楽器が演奏できたらいいな"とは思うが"楽器を習おう"とは思わない。(大多数の人は)
たいていの素人は自分が思っているより演奏が下手である。したがって自分の演奏が耳にはいるとたいていの場合がっかりする。
多くの場合、演奏だけに専念する時間はもてない。したがって演奏は"時々のりたいときだけ参加できる"ものであるようにするべきだ。
私の考えでは、YAMAHAは"光るギター"シリーズでこれらについて学んだのではないかと思う。光るギターは、適当にじゃかじゃか弦をかきならせば演奏できるし、そもそも人間の動きに演奏が依存していない。それくらいでなければ素人はつかわないのだ。
などと偉そうにいう貴様はどうなんだ、と言われればこの動画をみせる。
これは3年前、某社のアイディアコンテストで私がつくったものだ。車にのっていると流れる音楽にあわせ思わずハンドルをひっぱたいてしまう人は多い(断言!)
そうした人にとってこのシステムは福音となるものである。しかけは簡単。ハンドルに衝撃センサーをとりつけておき、その入力で、ギターを書きならす、とそんだけだ。このギターはYAMAHA製の光るギターなので、ハンドルを運転のために握っていても演奏はちゃんと継続される。
しかし素人が"ながら"で演奏する楽器はこれくらいでなければならんと思うのだ。携帯にのせるのであれば、携帯をコツコツはじくと演奏に参加できるとかなんとか。
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今回発表したのはYAMAHAの半導体事業部の人たちだったように思う。部品を作る立場から、こうした新しい提案をする、というのは実にすばらしいしうらやましいことだ。
聞かれてもいないアドバイスをするならば、発想の一つの方法として、任天堂がやった"○○のある生活"というような絵を描いてみるものいいかもしれない。これがあれば、生活がこう楽しくなる。豊かになる。そうした絵を描ける製品を実際に作ってしまうのも一つの方法ではなかろうか。(そうしたものを期待して、音楽会議をスポンサーし、多数社員を参加させていると思うのだが)
携帯を使って音楽を奏でながらの、美しく楽しい姿とはどういうものか。誰がどんなシチュエーションでこれを使って盛り上がってくれるのか。そんなことを具体的な絵にできないだろうか。
今回見せてもらったもののテクノロジーには正直感服した(私が作ったシステムだと、入力から音がでるまでのタイムラグがひどく、テンポの早い曲には対応できない)その技術と発想が結びつけば本当に面白い製品ができるのではないか、と期待してしまうのだ。
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などと書いていると我とわが身を振り返り、ずどーんと落ち込むことになる。
音楽会議に参加したのは2回目だが、YAMAHAの社員さんたちの"会社を仕事を誇りに思っている姿勢"にはいつも強い感銘を受ける。
そして前回参加したときから私の環境は変化した。今は"何時までにこれを出せ"という要望に答えることだけしかしていない。
こうした"新しい提案"ができる立場というのは素直にうらやましく思える。そして今の私は他の人に"がんばって面白いものを世の中に出してください"としか言えない立場だ。
繰り返しになるが"半導体事業部"でありながらこうした提案を作り上げてしまう、ということには素直に感服するしうらやましいと思う。
しかし後半私が"燃料切れ"になったのもそれ故ではなかったかと思うのだ。